更新日:2022年1月26日
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国指定文化財
姶良市の国指定文化財全6件を紹介しています。
大隅国分寺跡附宮田ヶ岡瓦窯跡〔国指定史跡〕
大隅国分寺は聖武天皇の詔によって現在の霧島市国分に8世紀後半から9世紀初頭に建立された寺院です。その堂舎の屋根を葺く瓦を焼いた窯が宮田ヶ岡瓦窯跡です。
窯跡は別府川河口から約5km上流の位置にあり、別府川右岸の台地から伸びた小丘陵をくりぬいて築かれています。大隅国分寺からはほぼ真西に直線距離で約15km離れていますので、瓦は別府川を利用して舟で運搬されたと考えられます。
窯は全部で3基確認され、このうち第3号窯跡の北半分と周辺の瓦溜りが発掘調査されました。第3号窯跡は全長6.34mの地下式登窯で、床面には瓦で窯詰め用の段を9段設けています。また、窯詰めされた状態の瓦が3箇所で検出され、丸瓦1枚を平瓦5枚で合掌形に挟み込む窯詰め方法が確認されました。焼いている最中に窯の天井が落ち、そのまま操業を止めてしまったと考えられます。
出土した本瓦葺き用の瓦は2万点を超え、その種類も軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦・熨斗瓦(のしがわら)・面戸瓦(めんどがわら)と豊富ですが、鬼瓦や鴟尾(しび)は出土していません。このうち軒平瓦の文様が大隅国分寺跡出土のものと一致することから、国分寺瓦窯であることが確認されました。
大口筋白銀坂(おおくちすじしらがねざか)・龍門司坂(たつもんじさか)〔国指定史跡〕
白銀坂
白銀坂は、鹿児島県姶良市脇元から鹿児島市宮之浦町までの石畳の残る旧街道です。この旧街道が通る山並みは、古代における薩摩国(鹿児島市側)と大隅国(姶良市側)の国境でした。また、戦国時代には、島津貴久や島津義弘などの武将たちがこの坂に陣を構えたといわれています。
江戸時代に入ると、白銀坂は鹿児島藩の主要街道である「大口筋」として整備され、藩内随一の難所として人々に知られていました。
「大口筋」とは、鹿児島城下から重富―帖佐―加治木―横川―大口―「亀坂峠」(熊本県)まで、全長約70kmの街道を指します。『鹿児島県史』によれば、江戸時代には「大口筋」の他に「出水筋」・「高岡筋」の街道があり、「これらにより、大阪・江戸へ連絡するには、通常、出水筋・大口筋では豊前小倉に、高岡筋では日向(宮崎)細島に出て、ともにそれより海路を取る」とあります。
※坂の途中は滑りやすい場所があり、特に雨の日の後などは危険です。訪れる際は十分にご注意ください。
龍門司坂
大口筋の一部で、寛永12年(1635)に造られ、100年後に石が敷かれました。石は近くの樋ノ迫山から切り出され、全長は1500m余りと言われますが、現在は約500mが当時の姿で残っています。苔むした石畳と杉木立の景観が美しく、「翔ぶがごとく」や「篤姫」といった大河ドラマのロケ地にもなりました。明治10年(1877)には西郷隆盛の率いる薩軍がこの坂道を通って熊本へ向かいました。
※石畳の上は滑りやすく、特に雨の日の後などは危険です。訪れる際は十分にご注意ください。
南浦文之墓(なんぼぶんしはか)〔国指定史跡〕
文之和尚は、弘治元年(1555)日向国南郷外浦に生まれ、島津義久・義弘・家久に仕えて島津家の政治・外交に活躍した人物です。
鹿児島の大竜寺の開基や鎌倉の建長寺の住職も勤めました。朱子学に秀で、漢籍の訓点を施し、後世まで「文之点」として日本儒学の発展に貢献しました。また、鉄砲伝来の様子を資料や伝承によりまとめた「鉄炮記」も著しています。
所在地:鹿児島県姶良市加治木町反土1814(外部サイトへリンク)
鹿児島島津家墓所(かごしましまづけぼしょ)〔国指定史跡〕
江戸時代、鹿児島藩を治めた大名である島津家と、「一門家」と呼ばれる藩主親族家である越前(重富)・加治木・垂水・今和泉の各島津家、および家臣団上位の家格である一所持の宮之城島津家の合計6家7か所からなる近世の武家墓所です。姶良市からは越前(重富)と加治木、両島津家の墓所3か所(紹隆寺墓地・能仁寺墓地・長年寺墓地)が指定対象となっています。
紹隆寺墓地(しょうりゅうじぼち)
元文2年(1737)、藩主島津継豊(つぐとよ)の時、弟忠紀(ただのり)が断絶していた越前島津家の名跡を継いで再興しました。元文4年には領地を与えられ、重富郷と名づけられました。紹隆寺は越前(重富)島津家の菩提寺で、墓地には16〜19、21〜24代の当主とその家族の墓があります(※20代忠教は島津家28代斉彬の異母弟・久光のことで、斉彬の死後、島津本家に復帰したため、墓は鹿児島の福昌寺にあります)。
所在地:鹿児島県姶良市平松6196番地(外部サイトへリンク)
能仁寺墓地(のうにんじぼち)
能仁寺は、島津義弘が戦死者の慰霊のため、端山に建立した般若寺の跡に加治木島津家初代忠朗が万治元年(1658)に建立した寺で、寛文10年(1670)に現在地に移転しました。
ここには、忠朗から現代に至る加治木島津家代々の当主や正室が葬られています。ただし、2代久薫(ひさただ)の墓は長年寺に、4代久門(重年)墓・5代久方(重豪)墓は、島津本家を継いだために鹿児島の福昌寺にあります。
所在地:鹿児島県姶良市加治木町日木山123-3(外部サイトへリンク)
島津忠朗墓(しまづただあきはか)
江戸時代、鹿児島藩の初代藩主家久の三男であった忠朗は、祖父である義弘の遺命により、寛永8年(1631)加治木島津家を興し初代当主となりました。
島津久徴墓(しまづひさなるはか)
加治木島津家6代当主であり、天明4年(1784)加治木に毓英館を創設しました。久徴は長崎や江戸から優秀な学者を呼び、子弟の教育や学問の普及に努めました。
長年寺墓地(ちょうねんじぼち)
かつて加治木城の下に大樹寺という寺があり、当時加治木に居住していた島津義弘や息子である鹿児島藩初代藩主家久は、たびたび参詣したといわれています。しかし、寺の立地が加治木島津屋形の鬼門(北東)にあたることから新しい寺地を見分し、寛永14年(1637)現在地に移築させ、その後寺号を「長年寺」と改めました。明治2年(1869)の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は墓地だけが残っています。
所在地:鹿児島県姶良市加治木町木田2841(外部サイトへリンク)
椿窓院殿供養塔(ちんそういんどのくようとう)
島津家中興の祖・忠良の三女であり、島津家の家臣として加治木に勢力を持っていた肝付兼盛の妻であった西姫を祀る供養塔です。
島津都美墓(しまづとみはか)
島津都美は、垂水島津家に生まれ、寛保3年(1743)に加治木島津家4代久門の正室となりました。延享2年(1745)に5代久方を出産しましたが、その日のうちに19歳の若さで亡くなりました。久門と久方はともに島津本家に復帰し、名を変えて7代藩主重年・8代藩主重豪となっています。
都美の墓の隣には、藩主となった重豪が母の三十三回忌に供養塔として建立した、亀跌碑(きふひ:通称亀墓)があります。
蒲生のクス〔国特別天然記念物〕
蒲生のクスは、大正11年3月8日に国天然記念物に、その後、昭和27年3月29日に国特別天然記念物に指定されました。蒲生八幡神社境内にあり、推定樹齢1、500年、根回り33.57m、目通り幹囲24.22mで、幹の基部は凹凸が多く、幹の内部には直径4.50m(タタミ8畳敷分)の空洞があります。枝葉は四方に勢いよく生い茂り壮観な姿を見ることができます。
大正2年(1913)、林学博士の本多静六氏は、東京農科大学造林学教室編纂『大日本老樹番附』の中で「蒲生のクス」を東横綱の位に置いています。また、昭和63年度に環境庁が実施した『巨樹・巨木林調査』により、改めて日本一の巨樹であることが証明されました。
所在地:鹿児島県姶良市蒲生町上久徳2284蒲生八幡神社(外部サイトへリンク)
クローズアップ>>シンボリックツリー/日本一の巨樹「蒲生のクス」
銅鏡秋草双雀文様(あきくさそうじゃくもんよう)一面〔国指定有形文化財〕
蒲生八幡神社に保存されているもので、直径20.15cm。鎌倉時代に制作されたものです。内区と外区の区界があるが、文様は界線にかまわず、外区から内区へ秋草を配し、2羽の雀は紐の片側に飛び上がった様を表して鏡面の秋草を生かしています。
蒲生八幡神社には、この鏡のほかに116面の銅鏡が保存されています。
所在地:鹿児島県姶良市蒲生町上久徳2284蒲生八幡神社(外部サイトへリンク)