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更新日:2023年6月23日

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県指定文化財

姶良市には16件の県指定文化財があります。ここではその一部を紹介します。

 刀(銘:主馬首藤原朝臣一平安代)(かたな(めい:しゅめのかみふじわらあそんいっぺいやすよ))〔県指定文化財〕

刀(銘:主馬首藤原朝臣一平安代)(JPG:80KB)

この刀は江戸時代中頃、喜入にいた玉置(たまき)系の刀工であった一平安代が木津志(きづし)の城野神社へ奉納したものです。一平安代は当時鹿児島を代表する刀工であり、享保6年(1721)には、江戸城で技術を披露し認められて、刀に一つ葉葵紋を切ることを許されました。

黎明館寄託:鹿児島県鹿児島市城山町7-2(外部サイトへリンク)

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 宇都窯跡(うとがまあと)〔県指定史跡〕

宇都窯跡(JPG:206KB)

島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工金海(和名:星山仲次)は、義弘居館の北西に宇都窯を築き、義弘好みの茶陶を焼いたといわれます。これらの作品は加治木の御里窯の製品とともに「古帖佐焼」として大変珍重されました。

宇都窯跡は昭和9年(1934)に発見され、平成14年に県指定史跡となりました。

近年の再調査では2基の窯が同じ場所に重なって造られていたことが判明し、最初に造られた窯は日本国内に類例のない形で、金海の故郷である朝鮮半島との関係が考えられます。出土品としては白い粘土を用いた大振りな抹茶椀の破片が数多く出土しました。

所在地:鹿児島県姶良市鍋倉1376-2(外部サイトへリンク)

 

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 龍門司焼古窯(りゅうもんじやきふるがま)〔県指定史跡〕

龍門司焼古窯(JPG:232KB)

初代山元碗右衛門(わんえもん)が小山田に良質の白石を発見し、湯之谷窯から移窯したのは元禄の初め(1688年頃)といわれています。その30年後に現在の地に移り、以来昭和30年まで約260年余り間連綿と稼働してきた窯です。幾度となく改築されていますが、ひとつの窯がこれほど長期間使われる例は珍しいものです。

所在地:鹿児島県姶良市加治木町小山田6095(外部サイトへリンク)

 

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 木田の田の神(たのかみ)〔県指定有形民俗文化財〕

木田の田の神(JPG:325KB)

隈媛(くまひめ)神社の前にある、桃木野石を用いた高さ65cmの神像型の座像です。鼻を少し損じていますが、穏やかな表情で、ひもを背中に長く垂らした冠を被り、両裾は左右に跳ね上がっています。両手を前で合わせて輪をつくり、この中に笏を差したものと思われます。

明和4年(1767)の刻銘があり、神像型座像の田の神の中では、最も古いものです。

所在地:鹿児島県姶良市加治木町木田4057(外部サイトへリンク)

 

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 日木山宝塔(ひきやまほうとう)〔県指定有形文化財〕

日木山宝塔(JPG:283KB)

この2基の宝塔は、ほぼ同一の規模・規格で、金剛界(こんごうかい)と胎蔵界(たいぞうかい)の四仏が梵字で刻まれています。欠損している相輪部分を復元すると約3mになる大規模な宝塔です。南塔に「仁治参年」(1242)、北塔には「寛元元年」(1243)の年号が刻まれていて、鎌倉時代にこの地方を治めていた加治木氏の墓といわれています。

所在地:鹿児島県姶良市加治木町日木山485(外部サイトへリンク)

 

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 御里窯跡出土資料(おさとがましゅつどしりょう)〔県指定有形文化財〕

御里窯跡出土資料(JPG:75KB)

平成12年度に発掘調査された御里窯跡から出土した出土遺物のうち、茶道具43点(茶入33点、皿・碗類6点、窯道具類4点)が平成22年4月23日に県の有形文化財(考古資料)に指定されています。

御里窯跡で焼かれた茶入は当時の中央の茶会で人気を博し、幕府関係者や有力大名への贈答されたと考えられます。

所在地:鹿児島県姶良市東餅田498姶良市歴史民俗資料館(外部サイトへリンク)

 

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 下久徳の田の神〔県指定有形民俗文化財〕

下久徳の田の神(JPG:257KB)

高さ130m、幅70cmの自然石の前面を舟型にくぼめ、像高80cmの田の神像を浮き彫りにしています。短衣短袴の農作業姿で、右手に飯杓、左手に椀を持った像には着色が施してあります。記銘からみて、明和5年(1768)の造立とされ、石碑型の田の神像では県内最古といわれています。

所在地:鹿児島県姶良市蒲生町下久徳413-1(外部サイトへリンク)

 

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 漆の田の神〔県指定有形民俗文化財〕

漆の田の神(JPG:199KB)

巨大石の前面に像高108cmの田の神像が浮き彫りにしてあります。長袴にタスキをかけた立て膝姿で、両手に大きな飯杓を持っています。傍らの石碑に「享保三年(1718)寄進」の記銘があり、田の神舞型像としては県内最古とされています。

所在地:鹿児島県姶良市蒲生町漆365(外部サイトへリンク)

 

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 漆の庚申塔(こうしんとう)〔県指定有形民俗文化財〕

漆の田の神(JPG:215KB)

庚申とは「かのえさる」のことで高さ105cm、幅59cm、厚さ29cmからなる舟型平面の石塔です。「大永三年(1523)謹立」との記銘があり、現在知られている県内の庚申塔では最古とされています。

所在地:鹿児島県姶良市蒲生町漆1798-1(外部サイトへリンク)

 

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 蒲生御仮屋文書(かもうおかりやもんじょ)〔県指定有形文化財〕

蒲生御仮屋文書(JPG:126KB)

蒲生地頭仮屋などに保存されていた文書で、明暦4年(1658)から大正14年(1925)までの史料1180点が残っています。うち837点がマイクロフィルムに収められ、144冊の複本に保存されています。近世蒲生の社会状況を知ることができる貴重なもので、これほどまとまった史料は他に類を見ません。

所在地:鹿児島県姶良市東餅田498姶良市歴史民俗資料館(外部サイトへリンク)

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 蒲生御仮屋門(かもうおかりやもん)〔県指定史跡〕

御仮屋門のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像(JPG:141KB)

蒲生地頭仮屋の正門で、文政9年(1826)3月に再建されたという旨が、地頭仮屋棟礼に記されています。平成11年3月に大規模な改修工事を経て現在地に移設されました。

所在地:鹿児島県姶良市蒲生町上久徳2399(外部サイトへリンク)

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 建昌城跡(けんしょうじょうあと)〔県指定史跡〕

建昌城跡のサムネール画像のサムネール画像(JPG:192KB)

建昌城は、室町時代の享徳年間(1452〜1454)に豊州家(ほうしゅうけ)島津氏初代の島津季久(すえひさ)により築城された瓜生野(うりうの)城を前身とする山城です。慶長19年(1614)に建昌城という名で再び現れ、薩摩藩の初代藩主島津家久が本城候補として考えていた城でした。現在も曲輪や空堀が多く残り、当時の様子を知ることができます。

また近年の発掘調査では、山城の地下2mの深さに縄文時代草創期〜早期(今から13000〜9000年前)の遺跡が見つかり、上野原遺跡に並ぶ集落遺跡として注目されています。

所在地:鹿児島県姶良市西餅田2185ほか(外部サイトへリンク)

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 吉左右踊り・太鼓踊り(きそおどりたいこおどり)〔県指定無形民俗文化財〕

吉左右踊り(JPG:251KB)

吉左右踊りは、加治木町西別府地区のみに伝承されており、「吉左右(きそ)」とは、「めでたい便りを祝う」という意味です。市内8地域に残る太鼓踊りの中でも唯一県指定文化財になっています。毎年8月16日に島津義弘を祀った精矛神社などに奉納されます。

先導する白・赤装束の踊り手は、朝鮮出兵の際、道に迷った薩摩軍を案内した狐を表し、背の高い薙刀を持つ踊り手は朝鮮の兵、小柄で日本刀を持つのは薩摩の兵をそれぞれ表現しています。文禄・慶長の役をモチーフとしていますが、歌詞には「お互い武器を捨て、平和な世界を築きましょう」とあります。

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 掛橋坂(かけはしざか)〔県指定史跡〕

掛橋阪(GIF:49KB)

掛橋坂は、蒲生町北と西浦を結ぶ峠に見つかった石畳道です。現在の県道川内・加治木線が明治時代に開通する前の旧道で、江戸時代には藺牟田・祁答院方面と蒲生を結ぶ地方街道として利用されていたと考えられます。

掛橋坂が開通した時期ははっきりしませんが、道筋には寛政8年(1796)の庚申供養碑や明和9年(1772)の馬頭観音碑があることから、遅くともこの頃までには石畳道が完成していたと考えられます。また、石畳や石段の造り方が、大口筋白銀坂・龍門司坂(国史跡)に共通していることも、この道が江戸時代に整備された街道であることを示しています。

※坂の途中は滑りやすい場所があり、特に雨の日の後などは危険です。訪れる際は十分にご注意ください。

 

所在地:鹿児島県姶良市蒲生町西浦4635(外部サイトへリンク)(外部サイトへリンク)

お問い合わせ

教育委員会社会教育課文化財係

899-5294 鹿児島県姶良市加治木町本町253番地

電話番号:0995-62-2111(211)

ファックス番号:0995-62-3699

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