更新日:2024年8月30日
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史跡
姶良市には市指定の史跡が60件あります。ここではその一部を紹介しています。
総禅寺墓地(そうぜんじぼち)
豊州家島津氏の菩提寺であった総禅寺墓地に、島津季久(すえひさ)・朝久(ともひさ)・御屋地(おやぢ)様の墓〔市指定史跡〕があります。
島津季久は豊州家島津氏初代で室町時代に国人領主として活躍し、瓜生野(うりうの)城(建昌城)を居城としました。文明9年(1477)に城中で死去しました。
島津朝久は豊州家6代であり、義弘の娘婿に当たります。義弘とともに活躍しましたが、文禄2年(1593)、文禄の役の陣中で病死しました。
御屋地様とは義弘の長女千鶴のことです。島津朝久に嫁ぎましたが、朝久の病没後は義弘とともに帖佐の居館に住み、領民に慕われ、「御屋地様」と呼ばれました。寛永13年(1636)に平松城で死去し、総禅寺に葬られています。
新納旅庵(にいろりょあん)の墓[願成寺(がんじょうじ)墓地]〔市指定史跡〕
旅庵は17歳で上京して仏教の修行に励み、天正年間には壮巌寺の八代住持となっていましたが、肥後攻略のため派遣されていた島津義弘にその知略才幹を見出され、還俗して側近となりました。後には「薩摩の黒衣の宰相」と呼ばれ、文禄の役や関ヶ原の戦い後の困難な戦後処理に尽力しました。慶長7年(1602)大坂の薩摩屋敷で亡くなっています。
諏訪山板碑(すわやまいたび)〔市指定史跡〕
この板碑は、上名の諏訪神社跡にあり、今でもお諏訪様と呼ばれています。この山には源為朝伝説があり、為朝城とも呼ばれ、北側には空堀が残っています。
板碑の高さ1m、幅25cm、厚さ15cm、嘉暦3年は1328年で、大日如来の功徳を願った県下でも古い板碑です。
膝跪騂(ひざつきくりげ)の墓[亀泉院墓地(きせんいんぼち)]〔市指定史跡〕
膝跪騂は赤茶色をした島津義弘の愛馬でした。義弘が元亀3年(1572)の木崎原の戦いで、伊東氏家臣柚木崎丹後・肥田木玄斎と戦った際に、膝をついて助けたことからこの名が付いたといわれています。その後も大切に飼われ、この地で長寿をまっとうしました。傍らには長年飼育を担当した橋口対馬の墓もあります。
上場庚申供養碑(うわばこうしんくようひ)〔市指定史跡〕
道教では、人体には三尸の虫がいて、庚申の夜睡眠中に身体から抜け出して昇天し、天帝にその人の罪科を逐一報告すると考えられました。それを防ぐために年に6回ある庚申の日に祭祀を行い、三尸の虫を根絶することが信じられていました。
この庚申供養碑は、船津村でこの祭祀に参加した人々が根絶した三尸の虫の供養のために建立したものです。
天福寺磨崖仏(てんぷくじまがいぶつ)〔市指定史跡〕
天福寺跡の西側岩壁に彫られた23体の磨崖仏です。天福寺は創建時期など分かりませんが、島津義弘の娘お下が亡夫伊集院忠真(ただざね)の菩堤を弔うために再興した可能性があります。
島津義弘居館跡(御屋地跡)石垣〔市指定史跡〕
義弘は文禄4年(1595)に栗野から帖佐へ移り住みます。家老の新納旅庵が工事の監督をし、館の石垣は加治木の湯湾岳から運んだといわれています。この時、館周辺の町割りも整備されました。文献によれば、「築地石垣九十九間」であったといわれます。
慶長11年(1606)、義弘は平松へ移り、翌年には加治木へ移りますが、その後館には義弘の娘である御屋地(おやぢ)様(島津朝久の妻)が住みました。
所在地:鹿児島県姶良市鍋倉776・777(外部サイトへリンク)
平松城跡〔市指定史跡〕
現在の重富小学校で、天文23年(1554)蒲生方の岩剣城が落城した後、在番することになった島津義弘が、麓に築いた館が始まりといわれています。
江戸時代中期の元文2年(1737)には、越前島津家が再興されて、重富郷が領地となり、ここには領主館が置かれました。現存する石垣はこの時に整備されたと考えられます。
所在地:鹿児島県姶良市平松5633、5636、5638-2(外部サイトへリンク)
岩剣城跡(いわつるぎじょう)〔市指定史跡〕
重富小学校の西側にある岩剣城跡は、享禄2年(1529)頃に蒲生氏により築城された天然の要害に設けられた難攻不落の城です。天文年間に行われた大隅合戦では戦国島津氏にとって最大の激戦地となりました。島津義弘が初陣を飾った場所でもあります。
所在地:鹿児島県姶良市平松5219-6(外部サイトへリンク)
肝付氏墓(きもつきしのはか)[東禅寺墓地]〔市指定史跡〕
加治木氏・伊地知氏に続いて加治木城主となったのが、肝付氏です。肝付氏は加治木が豊臣秀吉の直轄地になるまでの68年間、この地を領有しました。肝付兼演ははじめ溝辺城にいましたが、伊地知氏の乱に乗じて加治木に入り、反島津勢力として戦いました。しかし、その後は島津氏に忠誠を示し、戦国島津家の一翼を担いました。
ここにある墓は、二代兼盛・兼盛側室・三代兼寛などのものです。
所在地:鹿児島県姶良市加治木町日木山522(外部サイトへリンク)
加治木島津屋形跡〔市指定史跡〕
慶長12年(1607)、島津義弘は、はじめ加治木城に入る予定でしたが、幕府に禁じられたために易学者の江夏友賢(こうかゆうけん)に命じて新しい屋形を定めました。
「東の丸」・「中の丸」・「西の丸」などが築かれ、その後「中納言様御殿」や幕末には「御対面所」などが造られました。御対面所は近代になってから、第七郷校、仮県庁、郡役所などに使われています。
所在地:鹿児島県姶良市加治木町仮屋町312(外部サイトへリンク)
加治木銭鋳銭所跡(かじきせんちゅうせんじょあと)〔市指定史跡〕
日本国内で安定した貨幣生産が行われるようになるのは、江戸時代になってからで、それ以前は中国からの輸入に頼っていました。しかし、絶対量の不足から、各地で中国銭の模造銭が造られており、加治木にもその鋳銭所がありました。
ここで造られた銭は「加治木銭」と呼ばれており、いつ頃から造られたかは不明ですが、最盛期は慶長の頃考えられます。
所在地:鹿児島県姶良市加治木町本町158(外部サイトへリンク)
実窓寺磧(じっそうじかわら)〔市指定史跡〕
元和5年(1619)7月21日、島津義弘が死去し、8月16日には遺骸を鹿児島の福昌寺に送りました。実窓寺は義弘の妻の菩提寺で、この日かねて約束の7人の武士が出発の時刻を期して割腹殉死した場所です。
現在は木田本通線の道脇に石碑が建てられており、近くには実窓寺川原記念公園が造られています。
所在地:鹿児島県姶良市加治木町木田4016-2(外部サイトへリンク)
毓英館跡(いくえいかんあと)〔市指定史跡〕
戦国時代を経て、安定した江戸時代になると国を治めるために武力だけではなく、学問の重要性が認識されました。毓英館は天明4年(1784)、加治木島津第6代久徴(錦水)が創設したものです。
加治木における学校の始まりで、鹿児島の造士館に遅れること約12年で造られました。長崎や江戸から優秀な学者を招来することにより隆盛をきわめ、藩内各地から多くの秀才が来訪しました。
所在地:鹿児島県姶良市加治木町反土2747-1(外部サイトへリンク)
日木山窯跡(ひきやまかまあと)〔市指定史跡〕
現在の精矛神社の社務所付近に窯があったといわれています。幕末の万延元年(1860)加治木島津家によって、苗代川焼から陶工を招き、染付白磁を焼くために造られた連房式登窯です。文久2年には新窯を築き順調な経営を続けましたが、明治になって、加治木島津家の援助を失い廃止されました。
その後、この窯で龍門司焼の陶工たちが焼造を試みましたが、西南の役などにより短期間で廃窯しました。
所在地:鹿児島県姶良市加治木町日木山281(外部サイトへリンク)
山元窯跡(やまもとがまあと)〔市指定史跡〕
小山田で龍門司焼を創始する初代山元碗右衛門(やまもとわんえもん)が、加治木島津家初代忠朗(ただあき)の命により寛文7年(1667)に築いた登窯です。
平成4年に発掘調査が行われ、肥前系の連房式登窯であることが判明しました。豊富な出土品により多くの新事実が解明され、薩摩の近世窯業史に大きな成果をもたらしました。
所在地:鹿児島県姶良市加治木町反土1947(外部サイトへリンク)
弥勒窯跡(みろくがまあと)〔市指定史跡〕
この窯は加治木島津家により、天明6年(1786)に龍門司焼の陶工と長崎県三川内焼(みかわちやき)から招かれた技術者たちが開いたものです。
発掘調査の結果、最大幅は6mを測る大規模な連房式登窯であることが分かりました。製品は日常食器の碗・皿類が圧倒的に多く出土しました。
絵付は細線で丁寧に仕上げられ、碗の内底に描かれた昆虫文が特徴的です。
所在地:鹿児島県姶良市加治木町木田2437(外部サイトへリンク)
御里窯跡(おさとがまあと)〔市指定史跡〕
島津義弘の御庭焼で、帖佐の宇都窯から移ってきた金海(星山仲次)により慶長13年(1608)頃に築かれた単室の登窯です。朝鮮の陶法に瀬戸の手法を取り入れた技術で茶道具が中心に焼かれました。
「火計り手」や「御判手」と呼ばれる碗や茶入が伝世していますが、その遺品は多くありません。その後、金海は鹿児島へ移り、「白薩摩」の流れの祖となります。
所在地:鹿児島県姶良市加治木町仮屋町313(外部サイトへリンク)
大樟の跡(おおくすのあと)〔市指定史跡〕
神代の昔、「ひるこ」という神様を乗せた「天のいわくす船」のふね柁が加治木の浜に流れつき、柁から芽が出て、天を突くような大樟になったという伝説が伝わっています。
加治木の地名は「柁の木」が訛って「かじ木」になったのだという言い伝えがあり、その大樟があった場所に今は代わりの樟が植えられています。
所在地:鹿児島県姶良市加治木町仮屋町93(外部サイトへリンク)
金山橋(きんざんばし)〔市指定史跡〕
藩政時代、旧道は龍門司坂を越えて小山田に通じていましたが、明治12年頃、島津家が当時の加治木港(通称舌出し)を起点として山ヶ野金山に通じる道を開きました。このとき石橋の金山橋が築かれ、この橋を第1金山橋とし、以下、第2、第3と命名しました。
長さ約23m、幅約4.2m、川床からの高さが10mあり、上流の「板井手の滝」との景観が美しい橋です。
所在地:鹿児島県姶良市加治木町小山田字井出口(外部サイトへリンク)
蒲生どん墓(かもうどんはか)〔市指定史跡〕
中世豪族の蒲生氏8代から13代までの当主一族の墓地で31基がまとめられています。慶応3年(1867)の洪水で埋没しましたが、昭和13年、有志により現在地に復元されました。
所在地:鹿児島県姶良市蒲生町上久徳1334(外部サイトへリンク)
竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟(りゅうがじょうまがいいっせんぼんじぶっせき)〔市指定史跡〕
竜ヶ城(蒲生城)の岩壁約120mにわたって梵字が刻まれています。その数は約1、700字にもおよび、1ヶ所にまとめられたものとしては、日本最多の磨崖梵字群であるといわれます。
注意周囲には落石や湧水のため危険な箇所があり、一部通行止めとしています。見学の際は十分ご注意ください。
所在地:鹿児島県姶良市蒲生町下久徳2562-1(外部サイトへリンク)