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更新日:2022年7月4日

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戦国武将島津義弘の生涯

プロローグ(義弘誕生)

島津義弘(1535?1619年)は生涯で52回の合戦に出陣し、数々の戦功に彩られた戦国時代屈指の武将であった。本家15代・島津貴久の次男として生まれ、父や兄の義久に従い、主に軍事面を担当。三州統一、九州攻略、朝鮮の役、関ヶ原合戦などに従事し、常に戦地最前線で指揮。島津家の勢力拡大を支えた中心的人物だった。
義弘は「武」のイメージが強いが、学問や産業振興に秀でた文化人でもあり、茶道は千利休直伝。豊臣秀吉の九州平定後、関白秀吉が主催する茶会に招かれ主賓扱いの厚遇も受けている。
産業振興にも実績を残し、朝鮮出兵の際には陶工たちを召し抱え、のちの薩摩焼に発展する窯業に力もを入れた。また、人格者でもあった義弘のこのようなエピソードも残っている。朝鮮出兵時に、現地の寒さが厳しく日本軍は凍死者を多く出したが、島津隊にはひとりも出なかった。不思議に思った加藤清正が義弘の陣営を訪れると、身分に関係なく全員一緒に暖をとり、義弘も兵士たちと寝食をともにしていた。義弘は毎晩数回、陣中を見て火が不足していないか気を配っていた。清正はこのことを知り感心したと伝えられている。
人情味あふれる人格から義弘は領民や部下に慕われていたという。

 

島津家略系図など

 

姶良が初陣の地

ここで、義弘の生涯を振り返ってみたい。天文4年(1535年)に吹上の伊作城で生まれ、幼少期は伊集院の一宇治城で育った。当時、内乱が絶えず島津氏も薩摩の一部を治めるにすぎなかったが、勢力の拡大と平定を進める祖父・忠良と父・貴久の活躍を目にしながら成長した。特に「日新公いろは歌」を残すなど教育者でもあった忠良の影響は大きく、敵味方を区別せず供養塔を建立するなど、その慈悲深さは義弘にも受け継がれた。
天文23年(1554年)、義弘は19歳。現在の姶良市(西大隅)を含む北薩には祁答院氏、蒲生氏、入来院氏、東郷氏、菱刈氏といった父・貴久に従わない勢力が多数あり、全面戦争となる「大隅合戦(西大隅の戦い」へ突入した。
岩剣城の戦いはひとつの大きな転機となり、義弘が初陣を飾っている。戦場となった岩剣城は重富小学校の西側に位置する険しい岩山の山頂部に築かれた山城。地元では「剣の平」と呼ばれ、小学校の校歌にも歌われている。三方が切り立った断崖で急傾斜の険しい山にある堅固な城。祁答院氏・蒲生氏の連合軍との激戦が繰り広げられ、義弘は白銀坂に陣をとり大きな戦功をあげた。この時の模様を義弘の自伝「維新公御自記」には「足をも止めず懸け入り、方々に追い散らし、数千の強敵を討ち滅ぼし」と記されている。
岩剣城の落城後、義弘はこの城の在番を命じられ、その後の平山城(鍋倉)や松坂城(蒲生町米丸)などへの攻撃の主力として活躍。弘治3年(1557年)に蒲生氏の本拠地である蒲生城(今の城山公園)を落とし西大隅を平定した。この大隅合戦中、鉄砲が使われていたことが記録として残されているが、実戦で使用されたのは日本史上初とされている。

岩剣城

 

 19歳の義弘が初陣を飾った岩剣城(剣の平)

 標高220.7mの山城、初陣の地・岩剣城。その麓にはかつて
 義弘が居住した平松城跡。現在、重富小学校となっているが、
 石垣の一部は残り当時を偲ぶことができる(写真左)。

 

 

薩摩・大隅・日向の三州を統一

西大隅を平定後、飫肥(宮崎県日南市)に入り、日向(今の宮崎県)方面に対する守備を固めた。永禄7年(1564年)には真幸院(今の宮崎県えびの市/真幸駅で有名)の領主となり、飯野城を居城とした。この真幸院は薩摩・大隅・肥後・日向4国の国境にあり、特に日向で勢力を伸ばす伊東氏に対抗するための要所であった。
元亀2年(1571年)に父・貴久が亡くなると翌年、伊東軍約3000が真幸院を攻撃、木崎原の戦いが勃発する。迎え討つ島津軍はわずか300だったが、複数の部隊を分散させ、伏兵戦で応戦。領民に旗を持たせ多勢にみせ、間者(スパイ)を使い伊東軍の情報を探り、嘘の情報を流すなどの情報戦も仕掛けた。窮地の中、綿密な戦略を展開したほか、義弘も一騎打ちで大将のひとり伊東祐信などを討ち取り激戦に勝利した。伊東軍を敗退させ、島津家は薩摩・大隅、そして日向を加えた三州を平定したことになった。島津氏は鎌倉時代、幕府から三州の守護に任命された家柄であり、この三州統一は念願であった。
木崎原の戦いの一騎討ちで義弘が乗る栗毛の愛馬が膝を曲げ、敵の攻撃をかわし義弘を救ったと伝えられている。この馬「膝跪?(ひざつきくりげ)」の墓は今も本市に残されている。

九州制覇の布石

敗れた伊東軍は、北上し豊後(大分県)の大友宗麟に領土奪回の援軍を願い出た。天正6年、引き受けた宗麟は5万人ともいわれる大軍を南下させた。島津軍は義弘のもとに義久や家久などの兄弟が援軍を集結させ高城川を決戦の地とした。数では劣勢の島津軍だったが、お家芸の「釣り野伏せ」で挑んだ。これはおとり(釣り役)の部隊がわざと敗走し敵を誘導し、引き寄せたところで伏せておいた兵で取り囲み攻撃するもので、軍の統制と団結力を要した戦法といわれている。
勢いづいた大友軍は不意を突かれ混乱。自領に撤退することになるが、合戦中の雨で途中の耳川が増水し川を渡れず、?れた兵士も多く、さらに島津軍の猛攻撃を受け大友軍は壊滅。この戦いは耳川の戦い(高城川の戦い)として知られている。
義弘は飯野城に26年間在番し、大口の菱刈氏や日向を攻略。その後の九州制覇の足掛かりとした。

 

豊臣に降伏

天正14年(1586)、豊後に侵攻しほぼ九州全土を平定するが、翌年、大友宗麟の救援を名目に豊臣秀吉が20万の軍を島津征伐のため九州へ派遣。義弘は、義久・家久と2万の軍勢で先鋒を務め、豊臣秀長軍に対抗するが、兵士数・装備に勝る豊臣軍に大敗し降伏。島津家は秀吉に恭順の意を示した。
九州の領土を没収され、秀吉は募集支配下の大名に分け与え、島津家の領土は薩摩・大隅、そして日向(一部)の南九州のみとなった。義弘は上洛して大阪で秀吉と拝謁すると、豊臣姓と羽柴姓を賜っている。島津家当主・義久を差し置いて、秀吉はあえて義弘を独立した大名として厚遇。これは島津家内の分裂を狙ったものとされるが、義弘は当主である兄・義久を立てる姿勢を崩すことはなかった。
当時、義久は国からはあまり動かず、中央政権からの命令に対しては義弘が動き、島津家の代表として外交・交渉をする存在であった。

 

2度の朝鮮出兵

義弘は二度の朝鮮出兵に従軍し、大きな戦功をあげている。島津軍の強さは敵軍からも恐れられ、特に撤退戦などで活躍。帰還後に義弘は加増も受けている。
島津家内では朝鮮出兵に対して消極的な態度をとる者が多かったが、義弘や子の忠恒など従軍した武将たちは勇猛な戦いぶりを見せた。
文録の役では文録元年(1592)、国元からの物資や船の準備がと整わず船を借りて出港したが、大幅に遅参。豊臣の不信感をかった。さらに巨済島で同じく出兵した長男の久保が病死。21歳の若さだった。島津家にとっては苦い遠征となっている。
慶長の役では慶長3年(1598)の泗川の戦いで、20万とも伝えられる明・朝鮮連合軍が島津軍が守る城に総攻撃を仕掛けてきた。島津軍は約7000。圧倒的な兵力の差だったため、相手を引き寄せ、鉄砲を打ちかける徳の戦術を展開した。奇襲や食糧を焼き払うなどの作戦も成功。敵軍が用意していた火薬が爆発し混乱するなか、島津軍が打って出て大軍勢を崩壊させた。記録によると討ち取った敵は3万8717。この戦いで武将としての義弘の名を不動のものにしたとされている。
義弘は文録の役の時が58歳、慶長の役の時が63歳であった。同じく朝鮮へ出兵した黒田長政や、加藤清正、宇喜多秀家などはいずれも30代前後であり、義弘は数少ないベテラン武将として戦さに臨んでいる。
 

 

関ヶ原の合戦

慶長5年(1600)、徳川家康に味方する東軍と反徳川派の西軍が関ケ原(岐阜県)で対戦。両軍合わせて20万ほどで数の上では両軍拮抗していたが、東軍の圧勝であっけなく決着する。
島津軍は西軍に参加したが、合戦が開始されても動かず、石田三成の再三の要請も無視して最後まで見守った。関ケ原に駆けつけた島津軍は兵士数約1500と少なく、義弘は変事に備え、派兵要請を国にしていたが当時、島津家と家臣・伊集院家との間で内乱が発生(庄内の乱)し、国ではその処理に追われていたといわれている。
西軍の敗戦が濃厚になると味方部隊は敗走し、義弘も死を覚悟したが、家臣に諌められ戦場からの脱出をめざした。周囲を敵に囲まれると、東軍の徳川家康の本陣へ向かって突撃し、敵軍の追っ手を駆逐して義弘の敗走進路を確保した。義弘の影武者として身代わりとなった重臣をはじめ、兵のほとんどを失いながら堺(大阪)から海路で薩摩まで逃げ延びた。帰還できた兵士はわずか数十人ほどであった。

 

晩年

関ヶ原の戦いから帖佐に戻った義弘は慶長11年(1606)、隠居し平松城へ、翌年には加治木屋形に移り余生を送った。
息子であり、当主の忠恒(家久)をよく補佐し、水利開墾による農業振興、植林や牧畜、養蜂の事業も推進し、国が豊かになることを心から願った。また、朝鮮から連れ帰った陶工たちの技術により窯業を発展させ、薩摩焼の基礎を築いた。加治木銭の鋳造をして貨幣の流通や、ルソン(フィリピン)や琉球王国(沖縄)、明(中国)などと交易も積極的に取り組んだ。

 

今も伝わる義弘の思い

精矛神社は義弘を祀った神社で、加治木駅の北側、加治木町日木山にある。この神社はもともと加治木高校横にあったが、大正7年(1918)の「義弘公三百年祭」の時に現在の地に建立(遷座)した。
今の神社は加治木島津家の別荘で、梅桜の名所であった「扇和園」である。ここは義弘が兄の義久を招いて宴を開いた縁の地であった。社名は義弘の神号・精矛厳健雄命(くわしほこいずたけをのみこと)に由来する。
100年前の300年祭が行われた当時、経費のすべては(旧加治木町の)町民のほか、関係者の寄付金で賄われ、武神というより郷土の恩人をたたえる目的で祀られている。同神社発祥の行事「義弘公奉賛弓道大会」や義弘の朝鮮出兵時の凱旋時に躍られた太鼓踊りは今もなお継承されている。
義弘は家臣の子どもが生まれると1か月ほど経ったときに父母を屋形に招き、自らの膝にその子どもを抱きかかえ「子は宝なり」と丁重に祝ったといわれている。敵味方を区別なく弔った郷里の英雄として、今なお敬愛されている島津義弘である。
元和5年(1619)に逝去。85年の人生を全うした――。
義弘が亡くなると、心から慕う家臣13名が後を追って殉死した。固く禁じられていた殉死だったが、主君と家臣、上下の身分を超えた強い絆がそこにあったことを物語っている。


精矛神社

 

 精矛神社

 義弘が祀られている精矛神社。
 今日では参道から境内に咲く桜の名所としても知られている。

 

 

 

 

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企画部商工観光課観光係

899-5294 姶良市加治木町本町253番地

電話番号:0995-66-3145

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