更新日:2024年12月16日

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令和6年

災害に翻弄された1年~2024年 令和6年~

今年も残り少なくなりました。毎年言うようですが1年って早いですね。皆さんにとってどんな1年でしたか?今年は本当に災害が多い年でした。元日に起きた能登半島の大地震。ついこの間のような感じですが、もうすぐ1年になります。どこまで復旧され被災された方々はどのような生活を強いられているのか。時がたつとともに情報も薄れてきている気がします。さらに能登地方には夏の大雨が襲いました。やっと地震から立ち直ろうとしていた矢先だった方々も多いのではないかと思います。心よりお見舞い申し上げます。
 鹿児島県も梅雨時に各地で線状降水帯が発生したり、台風10号による被害も甚大でした。さらに異常なのは11月になっても南方海上で台風が多く発生したことです。周辺の雨雲を刺激し大雨を降らせ与論島を中心に大きな被害をもたらしました。
 幸いなことに姶良市では人命に関わる大きな被害はありませんでしたが、姶良市がこれから先、災害に遭わないという補償はどこにもありません。平時のときにこそしっかりとした防災環境を整えていかなければなりません。その一環として災害時に自治体同士で補完しあえる防災協定を結んだり、また民間企業の卓越した技術や資材を災害対応のために活用していただくように防災協定を結び協力を取り付けています。
 先月、消防・防災・交通安全を一挙にテーマにした「まもるフェスタ」を開催しました。子育て世代の方々や子どもたちをはじめ多くの方々に参加していただきました。まずは一人ひとりの防災意識を高め地域全体で生命を守りながら、来年はさらに「住みここちのいいまち」に成長していきたいと思っています。

直面する危機への対応~そのとき首長は…~

先月、能登半島でまた大きな災害が発生しました。線状降水帯が発生し、短期間で大雨が降り多くの犠牲者が出ました。1月の大地震に続く大災害に慰めの言葉も見当たりません。お亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げますとともに、被害に遭われた方々へお見舞いを申し上げます。
「災害発生!その時、市町村長はどう対応する」という本があります。その中に大災害を経験した首長が集まる「水害サミット」でまとめた「災害時にトップがなすべきこと11か条」があります。「平時の備え」「直面する危機への対応」「救援・復旧・復興への対応」が事細かく書かれていて災害に遭った経験から得られた教訓を知ることができます。私は災害期を迎える時期にはそれを繙き心の準備をします。
「直面する危機への対応」を紹介してみます。①『判断の遅れは命取りになる。トップとしての判断を早くすること』②『命を守ることを最優先し、避難勧告等を躊躇してはならない』③『人は逃げないものであると知っておくこと。情報を随時流し逃げさせる技を身につけること』④『市民からの電話が殺到する。コールセンター等を設け即時対応すること』⑤『とにかく記録を残すこと』以上の5つのことが書いてあります。大災害を経験したことのない首長にとっては頼りになる羅針盤です。
自治体の最大の使命は大災害から市民の生命を守ることです。しかし、大災害では対応するはずの職員が被災する場合もあり、対応する体制が万全でないことを想定しなければなりません。初動対応を間違わないためにも平時からの備えが重要になってきます。

母の米寿祝い~引き継がれる物語~

私の母は9月で満88歳になり人生の大きな節目「米寿」を迎えました。米寿を迎えるというのは単に長い年月を生きた証明ではなく、そこに刻まれた数多くの思い出と経験が含まれていると思います。昭和11年生まれの母は戦前まで加治木町本町で暮らしていました。柁城小学校に通っていた小学校4年生の時に「加治木空襲」に遭い、本町から母親や妹たちと一緒に網掛川をつたって木田まで逃げたといいます。焼夷弾が近くに落ちて火柱が立ち「恐ろしくて、恐ろしくて・・」その時の様子を昨日の出来事のように語ります。結婚をして私と妹が生まれました。子供が生まれてからも勤めていた電電公社(現NTT)は辞めず定年まで働き続け私たちを育てました。伴侶である夫(私の父)とは52歳で死別し、これまで30年以上一人で生活をしてきています。とても我慢強い母です。私たちの前では辛い顔はみせたことはありません。いつも「大丈夫。大丈夫。」と言って笑います。

「兄ちゃんには寂しい思いをさせてばっかりだったね」と母は今もぽつりと呟きます。「そんなことはないって」と言っても首を横に振ります。母は共働きで育てたのを後悔していると言います。働く女性にとって子育て環境が今以上に整っていなかった時代の話です。先月。東京から孫も来て米寿の祝いをしました。2人の孫が母の丸くなった背中を支えて何やら話をしながら歩きます。笑い声が聞こえます。母が幸せそうに笑っています。88年という長い年月の中で母が残してくれた多くの物語。確実に次の世代へ引き継がれていると感じました。いつまでも元気で長生きしてください。今年も敬老の日を迎えました。

高校球児の熱き夏の”土”~甲子園100周年~

 夏の甲子園。今年も高校球児による熱き戦いが繰り広げられています。この時ばかりは生まれ故郷の出場校を応援してしまいますね。最近はあまりにも暑すぎる夏に、大会の運営方法の見直しも検討されているようです。
 今年は「甲子園」が完成してちょうど100年を迎えます。100年前の1924年(大正13年)は、「十干」と「十二支」それぞれの最初である「甲」と「子」が合わさる縁起の良い年であったため甲子園と名づけられました。それから100年。多くの名勝負と名場面の舞台となり高校野球の聖地となったのです。
 よく高校野球では負けたチームがベンチ前で甲子園の土を集めて持って帰るというシーンが見られます(コロナで一時禁止になった時期も)。この土。今では高校球児の思い出の品として貴重な役割を果たしているのですが、土の質については建設当初からかなり拘りを持って整地したのだそうです。もともと甲子園周辺の土質は砂浜のように白っぽく、ボールが見えにくいという欠点があったため、各地の土を取り寄せ試行錯誤して質の高いグラウンドに仕上げていきました。その熱意は今も引き継がれ絶妙の色合いと質感を生み出しています。
 甲子園の整備を手掛ける阪神園芸によりますと、今の甲子園の土は、志布志市の黒土と京都府城陽市の砂を6:4の割合でブレンドしているそうです。甲子園グラウンドに鹿児島県の土が使用され、高校生のプレーを支えていると思うとなんとも誇らしくなりますね。
 どこが優勝しても甲子園100周年にふさわしいチームであることは間違いないです。でも・・・できれば故郷の出場校が優勝してほしいなと。

約20年ぶりに新紙幣~500円札の思い出~

 50年ほど前のことです。小学校3年生の私は父からお使いを頼まれました。「チェリーを2箱買ってきてくれ」チェリーとはタバコの銘柄。その当時、小学生が父親のタバコのお使いに行くのはよくあることでした。父から青い柄の500円札を渡され、マンガを読んでいたのを中断され少しふてくされ気味のお使いでした。拾った木の枝を片手に道草を食いながらだらだらと歩き、ようやくタバコ屋の店先に着き「チェリー2箱くださーい」。
 半ズボンのポケットに手を入れ500円札を出そうとしました。が、無いんです。後ろのポケットもまさぐりましたが・・無いんです。あの蝶ネクタイをしてオールバックの岩倉具視の500円札。あぁ~途中で落としてしまったのか・・。一瞬にして怖い父親の顔が目の前に浮かびました。「やばい・・怒られる!」家に戻ってのその後の展開は私が予想した通りでした。「ボーっとしているからだ!」と大目玉を食らいました。それから岩倉具視の青いお札が嫌いになりました。500円札に罪はありません。が、500円札はいつしか500円硬貨に変わっていき1994年に発行停止。ついに私の前から消えていきました。
 今月3日に約20年ぶりに紙幣のデザインが一新されました。一万円札が福沢諭吉から日本資本主義の父と称される「渋沢栄一」。五千円札が樋口一葉から女性教育の先駆けとなった津田塾大学創始者の「津田梅子」。千円札が野口英世から近代日本医学の父と呼ばれる「北里柴三郎」になりました。変わったばかりはなかなか馴染めませんが時間が経てばしっくりとしてくることでしょう。最近は新紙幣に関わる詐欺も横行しているようです。お使いに行く途中に落とすだけなら少額で済みますが、詐欺にかかると大金を失う可能性もありますのでくれぐれもお気をつけください。

人生2度目の甲辰年~還暦を迎えて~

今月19日で満60歳です。還暦です。多くの先輩方が通り抜けた「人生の節目」をいよいよ迎えました。なんというのか・・いま一つ60年も生きてきたという実感も湧かず、年齢に見合うような経験や見識をまとっているかというと全く自信はありません。若い頃に感じていた60歳という人物像は、度量のある大人物で大人の風格を備えた人というイメージでした。確かにそういう人は多くいました。それに比べて今の私はどうか。なんだか恥ずかしいくらいに小人であるように思うのです。
私が以前勤めていたテレビ局を辞めたのは12年前の48歳の時でした。その後、選挙を経験して今の職に就かせていただいているのですが、会社を辞める決断をした際に自分に言い聞かせたことがありました。「もし、このままサラリーマンを続ければ60歳に定年退職を迎える。その時にあのまま会社に残っていれば良かったと後悔しないようにしよう」今月まさにその時を迎えました。
スライディング・ドアという言葉があります。発車する電車のドアが閉まりかけていた時に走りこんでその電車に間に合った人生と目の前でドアが閉まり間に合わなかった人生とでは、その後が大きく違うという意味です。人生の岐路は大小さまざまですが、もしあの時あの電車に乗れていたら・・もし乗れていなかったら・・時間が経って思うのは人間誰しもあることだと思います。
私はこの人生を選んでいることを後悔していません。12年前決断した私を褒めてあげたいとさえ思うくらい晴れ晴れしい気持ちで還暦を迎えています。これからも老いさらばえることなく、生き生きと仕事をしていきたいと思います。

 

新しい姶良市の幕開け~来月いよいよ開庁~

新しい年度、令和6年度になりました。この春から新入生、新社会人になった皆さん!おめでとうございます。今年は「甲辰」年。これには「成功という芽が成長していき姿を整えていく」という意味があるといわれています。新たな世界で希望を胸に前進する皆さんの成長と成功を願っております。
ここに白黒写真が2枚あります。「太鼓踊り」と「自衛隊西部方面隊による音楽隊パレード」の模様を写したものです。これらは昭和36年(1961年)旧姶良町役場が新しくでき上がった際の「役場庁舎落成祝賀会」で披露されたシーンを写したものです。庁舎が完成したのは9月30日でした。姶良町郷土誌には「鉄筋コンクリート造り2階建て、堂々たる近代的庁舎が完成」とその時の様子が記載されています。12月に行われた落成式には約4千人が参加したそうです。その中で、祝賀飛行の自衛隊機が墜落するという悲しい事故も起きていますが、手元にある祝賀会の写真からは新しい役場が開庁した喜びとこれからの町の発展を期待している様子がわかります。
63年の時が流れ、令和6年(2024年)の5月。いよいよ姶良町役場と同じ場所に新しい姶良市本庁舎が開庁します。63年ぶりの大きな出来事に立ち会えている私たちは、未来の姶良市民に記憶と記録を残していかなければなりません。姶良市は今、成熟したまちへの成長をめざしています。まだまだ未熟なところも多く成長の過程にあります。これから先60年後はどうなっているのでしょうか?成熟したまちとなり活気に溢れているのでしょうか?新本庁舎は、これから先の姶良市をずっと見つめていくことになります。

子ども館「ちるどん」~来月オープン~

落語を聞くのが趣味です。江戸時代や明治時代の風俗や社会を巧みに描いた古典人情噺が好きです。師匠に弟子入りしたての新米落語家さんがまず習う前座噺に「子ほめ」という噺があります。
落語ではおなじみの「熊さん」と「ご隠居さん」が登場人物。ある時、お世辞を言えばお酒にありつけると知った熊さんが「相手の歳をひとつでも若く言えばいいんだよ」とご隠居さんにお世辞の使い方を教えてもらいます。さあ、お酒好きの熊さん。同じ長屋に住む八さんに子供が生まれたことを思い出し、早速、八さんに家に行ってお酒にありつこうと赤ん坊を褒め始めます。「失礼ですが、赤ん坊のお歳はおいくつですか?」「おいおい、生まれたばかりだよ。まだ一つだよ」「ええ!生まれたばかりですか。それにしてはたいそうお若い。どう見ても、生まれる前でございます」と褒めるのです。ここが「子ほめ」のサゲ、笑いどころとなるんですね。
この時代は、子どもが生まれると長屋のみんなでお祝いをしたり世話をしたりしていたといいます。支えあって生活する「相互扶助」の考え方が当たり前だったので、こうやって騒々しい熊さんが「おせっかい」に来ても気にならなかったのでしょう。
4月に開設する子ども館「ちるどん」は、そういう「おせっかい」ができる施設になりたいと思っています。熊さんのように騒々しいのは困りますが、子育てに困ったら気軽に相談ができ、みんなで育てていける環境を整え長屋の住民のように子供たちの成長を一緒になって見守っていきたいと思っています。みんなで姶良市の未来の宝をすくすくと大きく育てていきましょう。

明日は我が身と捉え…~能登半島地震~

新年を迎えた元日の夕方。石川県の能登半島を中心にマグニチュード7.6の地震が襲いました。地震や津波などによる直接死の数では東日本大震災、阪神・淡路大震災に次いで3番目に多い災害となりました。亡くなられた方々に心よりお悔やみを申し上げますと共に被災されたすべての方々に衷心よりお見舞いを申し上げます。
改めて日本が地震列島であるということを思い知らされ、いつ自分に降りかかるかわからない災害の怖さを感じました。姶良市ではいざという時のために多くの自治体や企業と防災協定を結び、避難者の支援や物資の供給など対策を講じてはいますが、災害は人間の想像をはるかに凌駕するものであると認識しています。
今回の災害では、SNS上でのデマの拡散が目立ち、新たな災害時の警戒事項だと指摘する専門家がいます。このデマの拡散によって被災者は、より不安に陥り復旧や復興の妨げになるのは容易に想像できます。根拠のないフェイク動画を面白半分に流し、被災地を混乱させるという事態もあるそうです。また、動画配信の再生回数を増やすためだけに危険な被災地に乗り込む輩もいるといいますから本当に迷惑な話です。このようなことは日頃の防災訓練では想像できない事態ですが、対処する課題として意識すべきことだと思います。
災害はいつ襲ってくるかわかりません。明日は我が身と捉え、常に防災の意識を高めておくことが大切です。多くの犠牲者、被災者を出した今回の能登半島地震。困難を乗り越え一日も早い復旧・復興がなされることを心から祈念しています。
がんばれ!石川。がんばれ!能登。

 

 

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市長公室秘書広報課秘書係

899-5492 鹿児島県姶良市宮島町25番地

電話番号:0995-66-3111(301)

ファックス番号:0995-55-8343

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