更新日:2023年4月24日
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柁城のいわれ
ぼうばくたる天地創生の神代の昔、いざなみ、いざなぎの二神は、天のうき橋にたって蛭子を生み、そして、大八洲とやおろずの神々を生み給うた。蛭子は、足が立たず、天のいわくくす船に乗せられて下界に流されたが、その船のかじ(柁)は、流れ流れて、とある村里にたどり着き、うっそうたる巨木におい茂った。この村里こそ柁木、すなわち、加治木町である。1月27日(火曜日)
島津義弘は、柁城の敷地に一大屋形を築き、「柁城」と呼んだ。これを「かじき」とも読む。屋形は、慶長8年(1603年)から造営が始まり、落成は慶長12年(1607)であった。天明4年(1784)、島津久徴によって始められた郷校「毓英館」が、明治9年「柁城小学校」と改称された。柁城にめぐらされた石垣の中に神代のロマンと剛健な薩摩健児教育の歴史をしのぶことができる。
その後、柁城の「柁」を柁木の葉で包んだ校章が制定された。昭和20年8月、大空襲によって校舎は全焼したが、柁城の子らが、心身ともにすこやかに成長し、世界の子らと手をつなぎ、世界平和に貢献することを祈って、昭和28年に柁城校の新校歌が誕生したのである。
そして、昭和36年には鉄筋本館が、平成元年には新館が竣工した。現在に至るまで、ソニー理科教育優良校、椋鳩十文学記念館賞全国読書感想文コンクール連続学校賞など、数々の受賞のもとにあゆみを続けている。