更新日:2024年6月6日
ここから本文です。
クローズアップ
My Hometown "AIRA"
JO SHOJI |
姶良人スペシャルインタビュー 「元サッカー日本代表~城彰二~」 |
目標を持って一生懸命、謙虚に前へ――。
走りまくった学生時代 小学5年のある日、”城くん、これをやるからうちのチームに来てくれ”と熱心に何度も誘ってくるサッカー部の顧問の先生。その手に握られていた背番号9のユニフォームが城さんをサッカーのピッチへ導いた。
「当時、巨人ファンで原選手、篠塚選手が大好きだった野球少年でしたが、サッカーのユニフォームを見てかっこいいなぁと思い、二つ返事で“やります”と答えました。それが私のサッカールーツで、次第にゴールを決めることが快感になってきました。目立ちたがり屋だったので、ゴールを決めてヒーローになりたいと思い続けて、どんどんのめり込み、好きだった野球をやめ、サッカーひとつに絞りました」
中学時代は毎朝、早く起きて10キロのランニングを続けた。龍門滝温泉近くの自宅から空港までの坂道は思い出のコースと話す。当時の加治木中は強いチームではなかったが、チームメイトと協力して九州大会まで出場を決めた。
実家近くにある龍門滝に飛び込み、田んぼでサッカーをしていたという城さん。プロ選手として活躍できた根底には少年期の体験があったからと振り返る。高校はサッカーの強豪校、鹿児島実業高校に進学した。
「2度と戻りたくないハードな3年間。当時は名門校としてプレッシャーもありました。高校のときも、とにかく走りました。ライバル校が練習後10キロ走っていると聞けば自分たちは15キロ走っていました(笑)。部員は200人。レギュラー組は部員全員を国立に連れて行くと約束を交わし、試合に出られない人たちの代表として戦いました。11人ではなく、200人のチームとしてメンバーの気持ちや助け合いなどを高校時代に学びました。」
プロ生活で探し続けた生きる道 とにかく前へ――。
高校1年生で全国大会でベスト16、3年生になるとベスト4に貢献した城さんは、ジェフユナイテッド市原から背番号9を用意されプロ入り。Jリーグでは、デビュー戦でいきなり初ゴールを挙げ、その後4試合連続ゴールを決め、鮮烈なデビューを果たした。
21歳で三浦知良選手の後継者として日本代表のエースに抜擢。日本史上初のワールドカップ(1998年/仏)に出場。しかし、結果は予選リーグ3戦全敗。エースとしての重圧を始めて体験し、帰国した空港では水を掛けられ、メディアからもバッシングを受けた。 ショックでサッカーを辞めることを真剣に考えた。勝負に対してのこだわりがなかったと今では若いころの自分を分析するが、当時は悩み苦しんだ。 そんなときにかかってきた一本の電話。 ”お前大丈夫か?そんなので落ち込むな。日本のエースとして戦うためには強い精神力が必要だ。エースの重圧を体験できたことはすばらしいことだ。とにかく前に進め――” 三浦選手からの激励の言葉だった。 自分の代わりにエースに選ばれた相手に温かい声を掛ける三浦選手の度量の大きさと優しさに涙が止まらなかったと当時を振り返る。
現役引退――。 1シーズンの海外経験を経てJリーグに復帰した城さんだったが、思うような結果が出せずスランプに陥り、3年後には戦力外通告(ゼロ契約)を言い渡された。
「ちょうど新婚のころで焦りました。オリンピックやワールドカップ、海外リーグを経験した自分を過信していた時期でしたが、サッカーのことを知らない妻から”今のあなたは全然大したことないじゃない”とストレートに言われ、気づかされました。契約可能期限3日前になって、なんとか横浜FCに拾っていただきました。そこから変なプライドを捨て、子どものころの純粋な気持ちで、率先してボール拾いやボール磨きをして、チームメイトとのコミュニケーションも増やすように心がけました」
プロ生活最後の4年間を過ごした横浜FC時代では全盛期のキレを取り戻し、憧れの三浦選手との2トップで活躍。J2最下位だったチームをJ1へ昇格させました。そして、惜しまれながらも31歳で引退を決意。13年間の選手生活にピリオドを打った。
事業家としてキックオフ 現在サッカーに関するさまざまな企画やイベントを手がけ、全国を奔走する城さん。Jリーガーになった当初からマネジメント会社を立ち上げるなど、将来を見据えて動いていたのだそう。
「子どもたちが一生懸命サッカーをする姿を見る機会がプロ時代から多く、もっと子どもたちに教えてあげたいという思いが強くあった。引退後すぐに普及事業という形で実現し、今も活動を続けています。まだまだ野球や相撲には及ばないが、いつかサッカーが日本の国技なれば。その日まで微力ながらがんばりたい」
じょう しょうじ 北海道室蘭市生まれ。加治木中学校出身(父親の出身が加治木町木田)。鹿児島実業高校卒業後、Jリーグ入団。五輪やW杯、スペインリーグなどを経て、31歳で引退。現在、冠番組「手越祐也&城彰二のサッカーアース(日本テレビ/関東ローカル)」をもつなどサッカー解説者として活躍中。日本サッカー協会アンバサダーやJリーグ百年構想メッセンジャー、インテルアカデミージャパンのテクニカルディレクターを務め、日本サッカー界の発展に注力している。自身が経営するマネジメント会社では、企業や自治体と連携し、フットサルイベントなどを通じて地域おこし・ブランディングにも取り組む。 |
||||||||||
※広報あいらAIRAview H27.6.15号 抜粋インタビュー |