更新日:2015年7月27日
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平成27年
- 百八煩悩~やわらかい心~(平成27年12月)
- 林間紅葉~秋の趣に浸りながら~(平成27年11月)
- 老気横秋~月を愛でながら~(平成27年10月)
- 天地始粛~秋の気配~(平成27年9月)
- 九夏三伏~刹那の夏に~(平成27年8月)
- 恒久不変~未来へ引き継ぐもの~(平成27年7月)
- 五風十雨~梅雨のあとさき~(平成27年6月)
- “薫風自南来”~青葉の香りを吹きおくる~(平成27年5月)
- ”桜花爛漫”~巡る季節に思う~(平成27年4月)
- 河梁之別~旅立ちの時~(平成27年3月)
- “立春大吉”~春は名のみ~(平成27年2月)
- “笑門来福”~羊は祥なり~(平成27年1月)
平成27年12月百八煩悩~やわらかい心~
年の瀬も押し迫り、今年も人波に師走の色が濃くなってまいりました。「瀬」とは、流れが速い所の意味であり、一年の中で最も忙しい、年末の慌ただしさを「年の瀬」は良く表しています。冬将軍の足音も聞こえ、背中を丸める姿も一層拍車を掛ける気がします。
今年は戦後七十年の節目の年でありました。世界恒久平和を願いつつ、迎えた年であったはずですが、その実現には程遠く、それどころか、卑劣なテロの横行がこの年末の世情を暗くしています。
何故、同じ人間同士が傷つけ殺し合わなければならないのでしょうか。ましてや、人の寿命や運命を変える権利など神様でさえ持ち合わせてはいないはずです。「人間は忘却する動物である。」と言われます。辛い事や悲しい事を忘れ去り、それを咀嚼できるので生きていられるのだと言うのです。確かに、辛い経験が人生の糧と成りうるのかもしれませんが、戦争の悲惨さや愚かさを風化せることがあってはなりません。
さて、相田みつをさんの「せともの」という感慨深い詩があります。
「せとものとせとものとぶつかりっこするとこわれてしまうどちらかやわらかければだいじょうぶやわらかいこころを持ちましょう」
瀬戸物は固い陶器のこと。ぶつかった時に、相手だけが固いのではなく、自分も固いのであることを認識させてくれることが、本当の柔らかい心なのです。
除夜の鐘は、人間の持つ百八の煩悩を除き、罪を懺悔し清らかな心になるためのものです。百七回は今年の内に撞き、そして、もう一回は新しい年が、煩悩に惑わされないために鳴り響くのです。
気忙しい年末ですが、”やわらかい心”を大切にしたいものです。
平成27年11月林間紅葉~秋の趣に浸りながら~
紅葉は寒い地方から始まり、北から南へ、山の上から下へと紅葉前線が進んでいきます。南九州でも間もなく見頃を迎えるのでしょうか。昼と夜の寒暖差が大きいことが鮮やかな色を見せる条件と言われます。やはり東北や高い山での紅葉にはやませんが、錦織なす様は、心打たれる美しさがあります。紅葉は、広葉樹が冬支度をしている姿で、葉を落とすために、秋になって気温が下がり出すと糖分や水分などの供給をストップします。すると、葉緑素が壊れてしまうため、今まで見えなかった黄色い色素や葉の中に残った糖分によって赤い色素が作られ赤色が目立ってくるのだそうです。
昔の言い伝えによると、奈良の竜田山に住む「竜田姫」という女神が秋を司っていて、その着物の袖を振って山々を錦に染めていくと言われていたのだそうです。なんとも神秘的な話ですね。
また、「錦」と言うと身近に「錦江湾」があります。この名は、島津家第十八代当主家久が、加治木町日木山川河口の黒川の地で、「浪のおり/かくる錦は/磯山の/梢にさらす/花の色かな」という歌を詠んだことに由来します。山に咲いた花々が鏡面のような波に映り込んだ様子を錦に例えたのです。
さて、釣瓶落としに夕闇が迫る散歩の道すがら、秋刀魚を焼く煙や子供にせがまれて煮込んでいるのだろうか、カレーの香りが軒下から漂ってまいります。何とも言えず心温まり、幸せな気分になるのはなぜでしょう。そして、日が落ち切ってしまった中に、風の音や虫の音などが聞こえるのは、やはり何とも言えない趣があります。
「秋は夕暮れ」…。枕草子の一節ですが、どれ程世の中が進歩し変化しても、人の郷愁の思いは変わらないものです。
平成27年10月老気横秋~月を愛でながら~
「名月を取ってくれろと泣く子かな」
小林一茶の句ですが、無邪気な子供ならずとも、見事な満月には魅了されるものです。晩秋へと秋が更に深まるこの頃は、秋の夜長ともいわれる通り、夜空を楽しめる時間も増えてきます。虫の音を聞きながら、夜空にぽっかりと浮かぶ満月に思わず心を奪われた経験は、誰しもあるのではないでしょうか。
月齢の呼び名にも、風情があります。月が満ちていく過程の半月を弓に見立て、「弓張り月」と言い、満月は、「望月」とも言います。藤原道長が「この世をば/わが世とぞ思ふ/望月の/かけたることも/なしと思へば」と栄華の象徴として詠んだことで知られています。
また、満月を境にして、月の出が遅くなります。座って待つ内に出る月を「居待月」、寝て待つ月を「臥待月」とも言います。「月齢」、すなわち月の満ち欠けは、私たちの人生と協調しているのかもしれません。さて、お釈迦さまが出家を決意した理由は、自分の力ではどうにもできない「生老病死」という生の根源的な問題の解決をめざしたからだといわれています。現在は高齢化が急速に進行し、否応なしに自らの老いや死を考えざるを得なくなりました。老いていくことは避けられない事なのです。敬老の日をお祝いし、百歳のご長寿のお宅を訪問させていただきました。「このお母さんの所へ嫁いで48年間。一度も怒られたことも無ければケンカしたこともありません」と、義娘さんがしみじみと話してくださいました。
人に優しくすることは、巡り巡って自分に返ってくるのですね。家族に温かく見守られ、秋風の様に飄々としたおばあちゃんの笑顔が心に沁みました。
平成27年9月天地始粛~秋の気配~
人間の体は約60%が水分で構成されています。汗をかくことにより体温を調節し、その汗には、水分だけでなく塩分も含まれており、この両方が失われることで脱水症に陥ります。脱水症を放っておくと、熱中症、熱射病へと症状が移行していきます。適度な水分補給が重要ですが、水だけを短時間に大量に飲みすぎるのはある意味危険なことです。血液が薄まり、低ナトリウム血症となってしまうからです。それなりの成分を含むジュースやソフトドリンクに比べ、同じような量の水を飲み辛いのは、体が危険を感じ自然にストップをかけているからなのだそうです。
さて、夏の疲れが出始めるこの頃の暑さは身に堪えます。日中は夏の気候そのもので、秋が立ち処暑を過ぎても、なお残るその暑さを「残暑」とは、言い得て妙です。それでも、エアコンの風より肌に優しい朝夕の涼風には、秋の気配が潜んでいる気がして、秋がもうそこまで来ていることが実感されます。
また、猫は涼しい居場所を見つけ出す天才と言われます。汗をかかず体温調節の苦手な分、人間よりさらに暑い時期の悩みは多い事でしょう。そんな猫の生態を、「水をのむ猫の小舌や秋暑し」と徳田秋聲が詠み、初秋の残暑の雰囲気を見事に醸し出しています。
今年の夏は例年になく酷暑が続きました。天地始粛とはよく言ったもので、彼岸の頃には肌持ちも良くなり、秋も深まることでしょう。
平成27年8月九夏三伏~刹那の夏に~
八月の日射しが街中に降り注ぎ、コンクリートの照り返しに陽炎が揺らめきます。その暑さには、向日葵が良く似合います。その名は、花が太陽を追うように動くことに由来しますが、その動きは成長が盛んな若い時期だけで、完全に開いた花は東を向いたままになります。その姿には、人間が成長と共に迷いがなくなる事へ相通じるものを感じます。また、一面のひまわり畑に立つと、同じ太陽の方向を向いて咲き誇る姿に元気づけられます。まさにゴッホも愛した「情熱の花」なのです。
一方、夏の清しい花と言えば、朝顔です。「朝の容花」がその謂われで、「美しい女性の寝起きの朝の顔の様な花」という比喩的な表現から名付けられているのだそうです。朝に咲き夕べにはしぼむ姿から、「朝顔の露」「朝顔の花一時」など、儚さの喩えとしても用いられます。しかし、花の命は短くとも、ひと夏を通じて次々と花を咲かせる生命力の強い植物で、静かな中にもそこには力強い生への歓喜が漲っているのです。
また、枕草子の一節には「夏は夜、月の頃はさらなり…」とありますが、夏の夜空を彩るのは花火です。「おもしろうて/やがて悲しき/花火かな」の川柳の如く、遠くに音の余韻を残しながらも、長く姿をとどめず一瞬にして消えてしまいます。まさに、それは刹那の美学なのです。
暦の上では立秋を過ぎても、残暑に気を取られますが、夏はその喧噪と共に一瞬に過ぎてしまうのかもしれません。
今年の夏の想い出は心に刻めたでしょうか。
平成27年7月恒久不変~未来へ引き継ぐもの~
「田の神様」は、冬の間は山の神となり、春になると里に降りて田の神となります。農家の暮らしや、稲作の生育を見守り豊作をもたらすと信じられています。田の神信仰は、全国的な民俗行事として古来より農村に浸透していますが、田の神を石に刻み豊作を祈願する風習は、南九州独特の文化で、畦道から田園風景を見守り続けています。
また、路傍の地蔵菩薩や道祖神には、人の深い願いや慈悲の心が込められています。身勝手な廃仏毀釈の弾圧に遭い、その身を傷つけられても世の中の安寧を願い、心深く祈り続けてきました。ひっそりと祀られていて、だからこそ、しっかりと目を閉じているのでしょう。
幾星霜の季節の移り変わりの中で、「田の神様」と「石の仏」は、微笑みながらそして一点を見つめ人々と喜びや苦しみを分かち合ってきました。咲き誇る花の風景、賑やかな祭り囃子、祝い事や悲しい別れ…。そして、人間達の争い事や忌まわしい戦争の場面でもそこに鎮座し、その愚かさを目の当りにしても、その罪を許し、平和な世の中を願い続けたに違いありません。
今年は戦後70年の節目の年。人間で言えば、古希となり、それ程長い月日が過ぎたことになります。戦後生まれが社会を支え、動かす時代となり、戦争の悲惨さが風化しつつあると言われて久しくなります。しかし、どれ程時が過ぎようと戦争は美化されませんし、戦争に正義などありはしません。
「過ちを繰り返さない」ことこそが、石仏の祈りとともに未来へと引き継ぐべきものなのです。
平成27年6月五風十雨~梅雨のあとさき~
梅雨に濡れ、鉛色の空の下にありながらそれを映すことなく、鮮やかに咲き誇る紫陽花は、その花言葉の通り様々に色を変えます。この変化は、単に色を変えるというのではなく、更に美しくなっていくためのものなのです。
鹿児島では、出立や祝い事、神事の日などに降る雨を「島津雨」と呼び縁起の良いものとしています。島津家初代の忠久公の出生伝説に因んでおり、良いことが起こるいわゆる吉兆であるといわれます。
姶良市は、お陰様で先月、市制施行五周年記念式典を挙行いたしました。当日は、朝方の「島津雨」も、式典の進行に合わせるかのように上がり、それはまさに市の勢いを見るかのようでありました。そして、市がこれからどのような花を咲かせ、更には時代に則してどのように変化していくか、非常に楽しみであると同時に身が引き締まる思いです。
さて、いつの時代でも先は見えないものですが、戦国時代はまさに言うまでもありません。故に人々は、洋の東西を問わず、占術と言うものを編み出し、それに頼りました。そして、その中のひとつが「易学」なのです。
江夏友賢は、明国福建省江夏県(現中国)の出身で、易学に通じており、その才能を認められ島津家に召し抱えられました。鶴丸城や加治木屋形の縄張り(建物の設計・配置を定めること)を占ったことで知られており、加治木実窓寺跡に儒教式の葬法である亀趺の上に竿石が立つ墓が残っています。
梅雨のあとさきの湿った風の背中越しに、夏の気配が見えます。今年も暑くなるのでしょうか。
平成27年5月“薫風自南来”~青葉の香りを吹きおくる~
素足の感触が心地良い季節となりました。寒い間は家の中でも靴下やスリッパを履いて過ごすことが多く、靴下を脱ぎ去った開放感はとても気持ちが良いものです。畳や床の質感を肌で直接感じ取ることができ、素足でいることはまさに自然体であるということなのです。
また、半袖になると直に太陽を感じられます。町中から少し足を伸ばして畦道を歩いていると、紅紫色の蓮華草が敷き詰められた風景を見ることができます。蓮華には土を肥やす効果があり、稲の植え付け前に土の肥料分を増やすために植えつけられ、青々としたその様から「緑肥」と言うのだそうです。この時季はいよいよ土の匂いも濃くなり、生命の息吹を強く感ずることができます。
さて、5月5日は「端午の節句」にあたり、「菖蒲の節句」とも言われます。強い香気で厄を祓う菖蒲湯に入ることで無病息災を願うものです。また、「菖蒲」を「尚武」という言葉にかけて、勇ましい飾りや鯉のぼりを立てて、男の子の誕生と成長を祝う「尚武の節句」でもあります。そして、この時季になると思川の河川敷に、多くの鯉のぼりがたなびくのをご存知でしょうか。これは「思川水系浄化対策委員会」のみなさんの取り組みで、薫風を泳ぐ姿は、初夏の風物詩となっています。
住み良い「まち」を創るためには行政の活動だけではなく、地域住民同士のつながりや助け合いが不可欠です。今年度から始まる校区コミュニティ協議会が、ある程度の時間は掛かるとしても、確実に機能していくことは、市の未来にとって重要なことと言えます。
平成27年4月”桜花爛漫”~巡る季節に思う~
桜に限らずこの時期には、色々な植物が芽吹きます。枯草で覆われていた野原や、葉を落としていた木々に、鮮やかな新緑の芽吹きが見えます。「芽」という漢字は、草かんむりに牙と書きますが、これは、大地から鋭く現れる様子や、新芽の持つ生命力の強さと勢いを「牙」の様に感じ、象形されたものと思われます。
「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」古今和歌集の在原業平の和歌です。「桜が美しく咲き誇れば、散るのが心配になってしまう。世の中に桜が全くなければ、春の気持ちも、のどかなものであるのだが」という意味です。特に桜の開花前後の時期は天候が不順で、見頃を迎えても突然の風雨による桜雨などで、満開の花びらを無情にも散らしてしまうのです。毎年同じように咲く桜ですが、その花に寄せる思いは悲喜こもごも、様々なものがあります。
さて、当たり前の様に今年も春が巡ってきましたが、ともすると何でもない日常に慣れ過ぎてしまい、感謝することを忘れがちです。当たり前であり得ることの難しさも再認識すべきではないでしょうか。4月に入り、市役所にも新規採用者が登庁しました。特に今年は、消防本部に初の女性消防職員が2名配属されました。体力的にも男性との対等が求められる厳しい職場ですが、その中にあって、女性ならではの、きめ細やかな業務遂行にも期待いたします。
新規採用者の皆さん、一日も早く市民の皆様の力になれるよう、精進してください。賢愚の差は小さいけれど、努力の差は大きいものです。
平成27年3月河梁之別~旅立ちの時~
その昔、旅の手段といえば、徒歩か馬に乗るかでした。大切な人の旅立ちに際し、旅の無事を祈って、馬の鼻をその行き先へと向けたことが、いわゆる「はなむけ」の語源と言われています。日本初の日記文学である紀貫之の「土佐日記」の中にも「馬の鼻向け」の記述が見られます。
ブルートレインは、客車を使用した寝台列車の愛称です。西鹿児島・新大阪間の「明星」や東京まで繋いだ「はやぶさ」などがあり、”西駅〞での出会いと別れに寄り添っていました。出発を告げるその汽笛が四鳥の別れをかき消し、歩くようにホームを離れるその瞬間は、走り出せば追いつけるような名残りを惜しむ別れの場面でありました。時代はスピードを求め、移動手段もご多分に漏れず、今や、鹿児島中央駅から東京まで新幹線で結ばれる時代となりました。しかし、未だに”西駅〞という響きが耳に心地よく、列車の窓が開かないことに風情のなさを感じるのは、昭和生まれの郷愁でしょうか…。
さて、かといって別れは決して寂しいだけのものではありません。卒業や就職を機に、一人暮らしを始める人にとっては希望に満ちたものです。羽を伸ばすのも大いに結構でしょう。その中で経験する事は教科書には載っていない、あなたの人生にとって掛け替えのないものとなるはずです。そして、自由の中にある不自由さを感じることも良い教訓となることでしょう。
弥生三月。旅立ちの季節です。ふるさとを離れて、距離的には遠くなってしまっても、心まで遠く離れてしまわないでください。「ふるさと姶良」は、あなた達の事をいつでも優しく見守っています。
平成27年2月“立春大吉”~春は名のみ~
新年から年度末へ向けての何かと気忙しいこの時期は、時の流れが早く感じられます。まさに「一月は行く」、「二月は逃げる」、「三月は去る」とは良く言ったものです。しかしその反面、立春を過ぎ、暦の声を聴かなければ春を待ち焦がれることもないのでしょうが、季節の進み具合には焦燥感を禁じ得ません。「早春賦」の歌詞の如く、春は名のみで、風の冷たさはまだ暫く続くのでしょう。
季節の始まりを示す、立春・立夏・立秋・立冬の前日は「季節を分ける」ことからいずれも節分なのですが、現在では立春の前日だけを指すようになりました。これは春が一年の始まりであり、災いのない平穏な年であるようにとの願いを込めて行われることから、春の節分が有名なのです。また、冬から春への季節の移ろいは、気候も過ごしやすくなり、卒業、入学、就職、そして旅立ちの季節でもあり人生の大きな節目となっています。
さて、1月から2月にかけての寒い時季に、耕してある田圃を見かけます。これは「寒起し」といって、土中を寒風にさらすことで病原菌や病害虫を駆除する効果があるのです。昨年末に逝去された名優・高倉健さんの遺作ともなった、にんにくのCMの通り、農薬を使う代わりにその分、汗を流せば良いものができるのです。どれだけ手間をかけ、頑張ったかは、収穫した作物が教えてくれます。
姶良市は本年、市制施行5周年を迎えます。市民の皆様のご理解とご協力により市としての礎は着実に整いつつあります。引き続きプロセスを大切にしながら、職員と共に汗をかいて、新たなステージへと邁進して参ります。受験シーズンも真っ只中ですが、何より努力してきた自分自身を信じることが大切です。
「サクラサク」吉報を祈ります。
平成27年1月“笑門来福”~羊は祥なり~
一年の始めである正月は、春の始まりと考えられており、古来、春の訪れがもたらす生命の誕生を心から慶ぶものでありました。「めでたい(芽出度い)」という言葉は「新しい春を迎え芽が出る」という意味があります。
初夢の縁起物として、「一富士、二鷹、三茄子」が挙げられます。諸説ありますが、富士山のような高く美しい山、大空を自由に舞う大きな鷹、そして事を成すことから茄子。いずれも幸運を表す夢として名高い物ばかりです。そして、今年の干支の羊も縁起の良い善良な動物であり、「羊は祥なり」の諺があります。羊は同じ行動を取り大勢で暮らすことから、家族の安泰を示し、いつまでも平和に暮らすことを意味しています。ちなみに”群〞は、羊の群れを表す形声文字なのです。
また、めでたい長寿の秘訣が笑う事であるのは良く知られています。「笑門来福」の言葉の通り、笑顔になることで心が穏やかになります。自分のみならず、他人も笑顔にしてあげることは、一番身近で気軽なボランティアなのかもしれませんね。
さて、年末の都大路での高校生の疾走、年明けのニューイヤー駅伝での実業団の凌ぎ合い、そして、箱根駅伝での大学生の粘りの走りと、テレビ桟敷に釘付けになった方も多いのではないでしょうか。襷にはもう一つの力が宿っていると言われます。一人では諦めてしまう限界も、襷を繋ぐ使命感により、その限界をも越えてしまうものなのです。
市民の皆様と「心を繋ぎ」そして、「一緒に群れる」ことで、姶良市が笑顔溢れる平穏な一年となりますよう、本年も邁進してまいります。