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更新日:2015年1月7日

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平成24年

 平成24年12月 還暦の年に思うこと

市内のあちこちに、クリスマスのイルミネーションが華やいでいます。商店街などの店先には、大売出しの看板が立ち並び、師走の気ぜわしさに拍車をかけているようにも感じます。時の流れは止まることなく、まさしく光陰矢のごとしの例えどおり、慌ただしい一年でした。
ところで私は、今年、還暦を迎えました。知人が集まり祝ってもらいましたが、赤色の頭巾とちゃんちゃんこを着せていただいたのです。
かつては魔除けの意味で産着に赤色が使われていたことから、生まれた時に帰るという意味で、この習慣があるようです。少し照れくさい何とも言えない気持ちが半分とまだまだ若いんだという本音の部分がありましたが、私としては、初心に帰る儀式と解釈した次第です。
私の誕生日の2日後、10月12日は、プロスキーヤーで冒険家の三浦雄一郎さんの誕生日です。今年でちょうど80歳、傘寿を迎えられました。この日、三浦さんは記者会見を開き、来年5月に世界最高齢でのエベレスト(8848メートル)登頂を目指すと発表されました。翌日、新聞各紙に掲載されましたので、ご存じのかたも多いと思います。
現在の最高齢登頂者は、平成20年にネパール人男性が76歳で達成していますが、三浦さんが頂上に立てば、記録を大幅に更新することになります。
読売新聞は「編集手帳」で紹介し、”人間は弱いもので、より楽な方に心は傾いていく。苦労の多い仕事をするか、しないかで迷うときは、しない言い訳がいくつも出てくるものである。80歳(傘寿)で自らを奮い立たせた三浦さんには頭が下がる。多くの人は、三浦さんで思い出す傘は、パラシュート(落下傘)だろう。かつてパラシュートを安定装置に使ってエベレストを滑降し、世界を驚かせた。あれから42年が過ぎた。″と、掲載しています。
前記のとおり、私は今年還暦を迎えました。傘寿を迎えた三浦さんは記者会見で「限界まで行ってみたい。限界が頂上なら、こんないいことはない」と語られています。
私自身も自らを奮い立たせ、「姶良市の未来を生きる人たちのために、今何を行うべきか」を常に自問自答しながら、挑戦し続けなければならないと思っています。

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 平成24年11月 郷土の誇りに応えること

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炊飯器から立ち上る湯気から、いつになく甘い香りが漂っています。今年もツヤツヤの新米をいただくことができました。ちょうど関東地区のふるさと会に出発する日の朝のことです。
米づくりも最近では機械化が進み、手作業が中心だったころに比べると、作業内容は大きく変化し、刈り取った稲を掛け干しにする姿も、めっきり少なくなったように感じています。
文献によりますと、日本国内に稲の祖先型野生種が存在した形跡はなく、日本へは、南方の照葉樹林文化圏から黒潮に乗ってやってきた「海上の道」、「朝鮮半島経由の道」、「長江流域から直接の道」の三経路を主なものとして伝播したようです。稲作は、弥生中期までには東北北端まで達していたようですが、現代に至る日本文化の形成に重層的に大きく関わってきました。
日本人のお米に対する意識は、消費量の減少とともに、主食という概念は薄れつつあると感じています。社会経済の発展に伴い世界中の食材が入手しやすくなり、食文化も多様化しています。このこと自体、悪いことだとは思っていません。しかし、米は小麦と違い、それ自体にタンパク質、脂肪、ミネラル類が含まれていることから、先進国の肥満防止に向けて日本食、特にご飯に注目が集まっていることを考えると、少し皮肉なものを感じます。
私が学生時分、帰郷の折に作ってもらう母親の手料理は素朴な田舎料理でしたが、なぜか懐かしく、私にとっての食の原点でもあります。
志を抱いて故郷を後にし、今でも都会で活躍されているかたがたが、故郷を同じくする縁でふるさと会を組織されています。姶良市のふるさと会は、関東と近畿地区に旧町ごとに組織され、毎年、総会の開催案内をいただいています。
総会では、どのふるさと会も多くの会員で賑わい、「山野ん浜が、国立公園になったげなな~」、「須崎の用地に、工場がでくっち聞たど」、「帖佐駅の前ん道路は、拡がったや」、「蒲生ん八幡神社ん横へ、観光交流センターができたちな~」などという言葉を耳にします。このように姶良市民ではない姶良市出身の多くのファンが、姶良市の動向を気にかけていただいています。
姶良市が誕生して3年目。歴史と言えるものはまだありません。今は、その盤石な礎を築くべき時であり、姶良市を想うファンの皆さんのためにも、今、姶良市で暮らしている皆様のためにも、未来を生きる人たちのために何を行うべきかを考え続けていきたいと思っています。

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 平成24年10月 経験と知恵の伝承

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今年も市内各自治会等から、敬老会のご案内を多数いただきましたので、三役で手分けして訪問したところです。
敬老の日は、「多年にわたり社会に尽くしてこられた高齢者を敬愛し、長寿を祝う日」として規定されています。訪問させていただいたどの自治会でも、地域の先輩方に対する敬愛の念を工夫され、楽しい時間を過ごしておられました。市内のほとんどの地域で、このような祝賀行事が行われることはとても大切なことであり、意義深いことです。
しかし、敬老の日が祝日として制定されたのは、昭和40年のこと。東京オリンピックの翌年で、東海道新幹線も開通し、所得倍増計画が打ち出されるなど、黄金の60年代と言われた時代でもあります。
当時から半世紀近くの時が流れ、社会の成熟化とともに超高齢化社会を迎えた現代は、日本人の平均寿命も世界トップクラスを誇り、かつての時代にはなかった新たな多くの課題に直面しています。これらの課題は、社会全体で考える必要があり、人生の先輩に当たられる方々には、その蓄積された経験と知恵を提供していただき、解決に向けた取り組みを進めなければならないと考えています。
8月22日付けの南日本新聞に「老人クラブ二割減」という見出しで、高齢者人口が増加している一方で、老人クラブの会員数が減少しているという記事が掲載されました。老人クラブは、地域の高齢者の自主的組織で、昭和37年に「全国老人クラブ連合会」が結成されてから、今年で50年目を迎えています。
県内のクラブ数及び会員数も、平成7年の2886団体(会員数約17万3千人)をピークに減少を続け、本年5月1日現在では、2165団体(会員数約11万2千人)となっており、会員数で約6万人減少しています。このような現況の中、県老人クラブ連合会では、平成5年に女性委員会、平成17年に若手委員会の設立を各クラブに呼び掛けるなど、社会の変遷に沿った運営の見直しや若手の取り込みを進めておられます。
前述のとおり、老人クラブは地域の自主的な組織ですが、子ども会や女性部、青壮年部などと同様に、地域を基盤として、相互に連携した活動を行うことが大切だと思います。そして、それぞれの活動を通して課題を共有し、暮らしやすい地域づくり活動に結び付けていかれることを願っています。

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 平成24年9月 心奮わす鉦と太鼓

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「キャンキャンズ、キャンズ、キャンズ...」、少し高めの鉦(かね)の音と細く反りのある桴で敲く太鼓の音。ホタ振りの調子に合わせ、鉦打ちと太鼓打ちがリズミカルに跳びはねながら踊り歩く。姶良市の夏の風物詩の一つとなっている太鼓踊りです。先月16日と21日、加治木・蒲生の両地区で披露されました。四百有余年の歴史を誇っています。
現在、太鼓踊りは県内各地で踊られていますが、その仕様はさまざまです。姶良市(加治木・姶良・蒲生)の太鼓踊りは、その踊り方と同様に、同じ由来を持っていると言われており、島津義弘公に結びつくものです。
それは、義弘公が江戸の徳川家康公のもとに伺候した時、折しも江戸市中で流行っていたコレラ沈静のため踊られていた駿河の念仏踊りを見て、家臣に命じて習わせ、自らの創意も加えて完成させました。また一説には、朝鮮出兵の帰途、五島で稽古させたものとの文献も残っています。いずれにせよ義弘公は、太鼓踊りは流行病を鎮める効果があり、踊りの勇壮さが士気を鼓舞するのに格好で、朝鮮の役の凱旋踊りにしたいと考えたようです。
義弘公が踊りの習得を命じた家臣は、牧之瀬源左衛門と池田千兵衛尉の2人。牧之瀬氏は加治木郷岩原、池田氏は山田郷奈良袂の武士です。牧之瀬・池田の両人は、帰国後、士民に伝習しようとしたが、不幸にも牧之瀬氏が亡くなったため、池田氏一人で山田の士民に教えることになります。1608年、加治木館の東北大樹寺で踊ったのが最初とのことです。その後、隣村の加治木西別府に伝わり、帖佐、重富、蒲生、溝辺などに伝えられたとされています。
加治木西別府では、吉(き)左右(そ)踊(おど)りが太鼓踊りと一緒に演じられます。これは、義弘公が朝鮮出兵の際、白・赤の狐のおかげで戦いに勝利したとされることから、顔の左右半分を色分けした狐役のドラ打ちがいるのが特徴です。
鹿児島を代表する民俗芸能の一つである太鼓踊りが、姶良市で脈々と伝承されていることは、誠に素晴らしいことだと思っています。鉦と太鼓の音は、身体中に響き、正に士気を鼓舞するものとした義弘公の想いが、ストレートに伝わってきます。
今年はまた一つ、春花の太鼓踊りが蒲生の三地区太鼓踊りに加わっていただき、市役所の姶良本庁舎玄関前で華やかに披露していただきました。春花の福山昭彦自治会長さんは、「数年途絶えていたが、蒲生の太鼓踊りに参加できてよかった。来年以降も継続していきたい」と話され、誠に嬉しく、無形民俗文化財としての価値以前に、その地域に暮らす人としての心意気を強く感じたところです。

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 平成24年8月 関西という大市場

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今年で8回目を迎えた「関西かごしまファンデ-」が、先月22日、大阪市の京セラドーム大阪で開かれました。主催しているのは、関西鹿児島県人会総連合会です。私は、当日参加されるかたがたと伊丹空港行きの朝一番の飛行機に、5千個ほどの”加治木まんじゅう″と一緒に慌ただしく搭乗手続きを済ませ、一路京セラドームを目指しました。
伊丹に着くと、前日入りしていた職員から「加治木まんじゅうはまだですか」と、催促の電話です。どうやら会場では、まんじゅう目当てのお客さんが

列を作って待っている様子。私たち一行より、まんじゅうの到着の方が優先のようでした。しかし、待っていてくださるお客さんがおられるのは、誠に有難いことです。
このファンデ-に、開会時間から参加するのは初めてで、来場者の多さに圧倒されながら姶良市のブースに入り、「鹿児島県の姶良市です。いらっしゃい、いらっしゃ~い!」「昔懐かしい、い

こ餅は如何ですか~。干しシイタケもありますよ~」と、呼び込みを始めました。姶良市は、特産品協会を中心に、手作り味噌、シイタケ、桜島灰干し鰤、とろとろプリン、鶏のコロコロ焼きなどを出品・販売しました。何といっても加治木まんじゅうは好評で、午後一時過ぎには完売し、続いてシイタケと、ほとんどが完売という盛況でしたが、パッケージや売り方、価格設定など、課題も見えたところです。
今回のファンデ-は出店数も過去最多で、230企業・団体による333ブースとなり、来場者も約3万4千人を数えました。関西鹿児島県人会総連合会の稲盛和夫会長は、「国内で県人会によるこのような規模のイベントは例がない。皆さんの限りないパワーを感じる。郷土の特産品や舞台での歌や踊りなど、ゆっくり楽しんでいただきたい」と挨拶されました。
私は、ファンデ-が京セラドームで開催できるのは、稲盛会長のご厚意の賜物だと思っています。最高のステージが用意され、観光や特産品販売の促進と、そのための情報発信を行う絶好の機会が提供されています。
今回、姶良市のブースで販売したのは前記のとおりです。関西市場でも好評を博する姶良市の産品ですが、地産地消も視野に入れ振興を図る考えです。新たな特産品と呼べる商品開発は、地域経済の起爆剤にもなり得ますので、衆知を集めて戦略を練り、実証を重ねたいと思います。

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 平成24年7月 ”大河ドラマ”考

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NHKの大河ドラマは、今年の”平清盛”で51作目を数えています。大河ドラマが始まったのは、昭和38年4月からで、激動の幕末を舞台に、攘夷論に反対し、あくまでも開国を主張して桜田門外に果てた大老・井伊直弼の生涯を描いた”花の生涯”が、第一作目でした。以来毎年、歴史上に名を馳せた人物を中心に、時を同じくして生きた人々との人間模様が描かれ、視聴者に感動を与え続けています
鹿児島県(薩摩藩)に所縁の深い人物が描かれたのは、平成二年の”翔ぶが如く”と平成20年の”篤姫”です。本県は、幕末から明治維新の黎明期における偉人を数多く輩出していますので、黎明期の代表作が”翔ぶが如く”であり、”篤姫”であると考えています。
私は、中世から近世にかけて、いわゆる戦国の世を経て武士社会が確立される過程における偉才として、描かれるべき人物がいると思っています。それは、島津家17代当主・島津義弘公です。
義弘公については周知のところですが、15代当主・貴久公の二男として生まれ、薩摩・大隅・日向国に群雄割拠していた数多くの武将と対峙しながら、島津氏の勢力拡大にその才を発揮しています。また、豊臣秀吉の命による朝鮮出兵の際には、準備に手間取り「日本一の大遅陣」をしてしまいますが、日本側の軍勢が各地で苦戦する中で、義弘公の軍勢は善戦しています。
天下分け目の戦いとなった関ヶ原の戦いでは、約1500人の少ない軍勢にもかかわらず、西軍の劣勢が決定的となった後に敵陣を突破して退却しました。これは「島津の退き口」として勇猛さが称えられ、敵将・徳川家康にも一目置かれています。
昨年10月26日、観光かごしま大キャンペーン推進協議会(会長・伊藤祐一郎県知事)など、県内の商工観光五団体の関係者が東京・渋谷のNHKを訪問され、薩摩の戦国大名・島津義弘公の大河ドラマ制作を求める要望書を松本会長に提出されました。
武功の華々しさに加え、茶人としても知られる義弘公ですが、朝鮮出兵において「鬼島津」と恐れられたということが気になっていましたが、先月4日に開かれた加治木史談会主催の講演会で、鹿児島国際大学の太田准教授から「鬼島津の文言がある史料は存在しない。むしろ、高い統治能力を発揮し、朝鮮王朝側が憤慨するほどだった。」と伺い、没後400年を迎える平成30年までの大河ドラマ化の思いを、改めて強くしているところです。

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 平成24年6月 ”おいでめせ柳川”の心

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連休明けの5月10・11日の2日間、福岡県柳川市で、第110回九州市長会が開かれました。会場となったのは、柳川藩5代藩主立花貞俶公が柳川城二の丸から移築した別邸御花畠。歴史的風格を備えた場所だっただけに、凛として会議に臨みました。
市長会には、九州管内118市の内115市の市長が参加し、前年度決算及び本年度予算の承認や行財政、社会文教、経済の各分野における15項目に亘る要望項目の決定、分野別テーマに係る意見交換などが行われました。
柳川市は、福岡県南部、筑後地方の南西部に位置し、市域は古くから人工的に開拓・干拓が行われてきました。このため、市内を掘割が縦横に流れており、水の都と呼ばれる由縁となっています。人口は、7万人余り。筑後地方南西部における商業の中心地となっており、干拓地を中心にい草、有明海で海苔の養殖なども盛んに行われています。
このたびの市長会は、柳川市のおもてなしの心と思いやりの心を、お堀を渡る風と共に強く感じました。
会議終了後に、お堀を下る「川下り」を体験しました。「川下り」とは、江戸時代の柳川城の周りを、「どんこ舟」に揺られながら巡っていくという、柳川ならではの時の過ごし方です。船頭さんたちが、竿ひとつで、ゆつら~っと船を進めていきます。前を行く船の船頭さんの歌が、風に乗って聞こえてきます。川岸には、授業で俳句を詠みにやってきた小学生たち。「どこから来られたのですか~」「鹿児島から来ました」「学校はどうしたの?」「今、俳句の授業中で~す」。子どもたちのあどけなさが、心地よく伝わってきました。
しばらく進むと、コーラスグループのかたがたが、歌で歓迎してくださいました。曲名は「待ちぼうけ」。柳川は、詩聖・北原白秋の故郷でもあります。♪待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日せっせと野良稼ぎ......再び聞こえてきた水音に、思わず時間を忘れた川下りでした。
姶良市にも、柳川に勝るとも劣らない観光資源が埋もれているのではないのでしょうか。これからの観光は、人々の心を惹き付ける物語が大切だと思っています。「姶良らしさ」に磨きをかけ、ゆっくりとした時を過ごせる空間を創造したいと思うことでした。

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 平成24年5月 お茶に学ぶ

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「♪夏も近づく八十八夜...」と茶摘みの様子を歌っているのは、唱歌「茶摘み」です。5月に入り、野にも山にも若葉が茂り、緑が目にまぶしく感じる季節になりました。
八十八夜は過ぎてしまいましたが、私が中学生だった頃までは、隣近所で手助けしながら茶摘みを行い、自家用のお茶を作って飲んでいました。来客にも、「ま、茶いっぺ飲んじっきゃんせ」と言って、自家製のお茶を勧め、茶菓子の黒砂糖で、話がはずんでいたものです。
お茶がいつごろ日本に伝わったのかは、はっきりしていないようですが、「日本後記」には、嵯峨天皇の近江行幸(弘仁六年・八一六年)の際、唐から帰朝した梵釈寺(滋賀県大津市)の僧永忠が茶を煎じて献上したとされているようです。お茶の栽培は、栄西が中国から茶の苗木を持ち帰り、福岡県と佐賀県の県境にある脊振山で栽培したのが最初と考えられていましたが、空海や最澄も持ち帰って栽培したという記録があります。当初は、主に薬として用いられていたようですが、栽培の普及とともに嗜好品として飲まれるようになりました。
日本のお茶の産地として有名なのは静岡県ですが、生葉の収穫量や荒茶の生産量も第1位で、名実共に日本一を誇っています。この静岡県に次ぐ産地となっているのは鹿児島県で、南九州市や霧島市が有名です。
このようなお茶の産地という点に着目され、県央に位置する姶良市の利便性を評価いただき、製茶機械メーカーである株式会社寺田製作所が、本市加治木町小山田へ進出することになりました。立地協定は、先月(4月)11日に締結したところです。
お茶は日本人の生活に深く関わり、言葉や音楽、料理に至るまで、あらゆる分野に浸透しています。茶に由来する話では、豊臣秀吉と石田光成の三杯の茶(三献茶)があります。同じものでも、相手の状況・状態によって出し方を変える。つまり、相手のことを考えて対応するということ。私も学び、実践していきたいと思うことです。

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 平成24年4月 新年度が始まりました

平成24年度の新年度が始まりました。私が新生姶良市の市長となって、早や2年が過ぎようとしています。光陰矢のごとしと言いますが、正にあっという間の2年だったように感じています。しかしながら、市長に立候補するに当たって皆様にお約束したことにつきましては、着実に一つずつ実施に向けた努力をしてきたと思っています。
まず取り組んだのは、それまで小学校就学前までだった医療費の無償化を小学校卒業時まで拡充し、保護者の経済的負担の軽減を図り、子育てしやすい環境づくりを行いました。
また、小学校の新設、消防庁舎及び火葬場の建て替え、いわゆる3点セットについては、給食室の新設、消防無線のデジタル化と併せ、PFI方式と従来手法との比較検討を行い、合併特例による財源の有利な活用ができる平成31年度まで(実際の完成は、平成29年末を予定)の完成に向けたタイムスケジュールを確立しました。
このほか、若者向け市営住宅の建設、市内周遊観光バス「あいらびゅ~号」の運行、3庁舎間を結ぶ巡回バスの運行、ふるさとハローワーク・消費生活センターの設置、資源ごみなどの分別収集方法の姶良市方式への移行など、鋭意取り組んできたところです。
このような中、3年目に向けた新年度が始まりました。本年度は、総合計画の重点プロジェクトと前期戦略プロジェクトの実施に重点を置き、市内周辺地域の集落活性化策や交流人口増加策などに取り組むことにしています。具体的には、「あいらびゅ~号」の本格運行、市民農園の開設、シイタケやタケノコのブランド化、1億円プロジェクトとしての商店街活性化等の振興策など、あらゆる分野に多くの新規事業を導入し、既存事業との相乗を図りながら効果的に実施していきたいと考えています。

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 平成24年3月 3月11日と太陽光発電設備

昨年、3月30日のことでした。
「戦後、昭和20年から4年間、姶良市加治木町に住まわせていただき、中学校で教壇に立たせていただくなど、大変お世話になった。高齢となった今、何か恩返しがしたい。」ということで、山口県下関市にお住まいの長府工産株式会社取締役会長である中山様ご夫妻が市長室を訪問くださいました。
ご要請により発電設備の設置を教育委員会に指示し、学校施設への寄贈ということで、加治木中学校への設置を前提に準備を進めてきましたが、このほど設置工事も完了し、教育委員会の音頭で寄贈式を開いていただきました。姶良市にとっては本当に有難い話であり、少し時間を要したことが心苦しいところでした。
昨年の3月末は、11日に発生した東日本大震災の直後ということもあり、太陽光などの自然エネルギーに対する期待が高まりつつあったところでしたので、子どもたちへの生きた教材としても役立つものと考えています。
ところで、インターネットで3月11日をキーワードに検索すると、7億8千4百万件ほどのヒット数ですが、ウィキペディアによると、宮城県沖を震源地として、国内観測史上最大となるマグニチュード9.0を記録する東北地方太平洋沖地震が発生。津波・震動・液状化など地震に伴う現象が、東北地方から関東地方までの太平洋沿岸一帯に甚大な被害をもたらし、加えて、福島第一原子力発電所事故を誘発した。これらの災害を総称して東日本大震災という。と、掲載されています。
この大震災発生から1年が経過しますが、原子力発電所を再稼働するのか、しないのかという議論と併せ、被災地のガレキ処理の問題がクローズアップされています。このたびの大震災は、一つの国難ですので、被災地の1日も早い復旧・復興のため、国の指導力が問われている状況にありますが、地方においても市民の安全・安心を守る立場から、情報の共有・説明責任を果たしていかなければならないと考えています。

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 平成24年2月 姶良市とクロツラヘラサギ

昨年11月のエッセイでも、クロツラヘラサギのことを少し書きました。
クロツラヘラサギは、東アジアだけに生息し、世界で2千羽余りしか確認されていない絶滅危惧種で、ごく近い将来絶滅の危険性が極めて高い部類に分類されている渡り鳥です。毎年10月下旬ごろになると越冬地に渡りを始め、3月下旬ごろから繁殖地へ渡るというサイクルです。
繁殖地は、朝鮮半島の韓国と北朝鮮の国境付近です。越冬地は、中国大陸の東シナ海沿岸部を陸沿いに南下し、香港や台湾、ベトナム辺りまでという主要ルートに加え、九州から沖縄に至るルートが確認されています。
この九州・沖縄ルートの中で、我が姶良市も越冬地として選んでいただいたようで、数年前からその姿を見ることができるようになりました。
クロツラヘラサギは、顔が黒いのでクロツラ、くちばしがヘラのような形をしているのでヘラサギと呼ばれていますが、実はトキの仲間です。黒い顔から伸びたくちばしと黒い足。体は純白の羽根に覆われています。
ヘラのようなくちばしで、首を小刻みに振りながら餌をとる姿はとてもユーモラスで可愛く、親近感を覚えます。
市民の皆様の中には、このクロツラヘラサギを市の鳥に指定してはどうかとのお話もあるくらいです。
自然は、多くの生命を育み、私たち人類もその恩恵を受けて今日の繁栄を築いてきました。自然は生命の源であると同時に、感動と安らぎを与えてくれます。これらの自然を大切にし、後世に残していく努力をすることは、行政が行うべき役割であると考えていますが、実践していただくのは市民の皆様ですので、連携・協働した活動を持続していきたいと考えています。

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 平成24年1月 新春のごあいさつ

明けましておめでとうございます。
市民の皆様には、夢と希望に満ちた平成二十四年の新春を健やかにお迎えのこととお慶びを申し上げます。また、昨年中は、市政各般にわたり深いご理解とご協力を賜り、心から感謝申し上げます。
さて、昨年を顧みますと、内閣の再編・交代や円高による雇用情勢の不安定化、ギリシャの財政危機に端を発する世界的景気後退の影響が続き、政治・経済は依然として混迷しました。また、戦後最悪の被害をもたらした東日本大震災をはじめ、国内各地で発生した自然災害、加えて福島第一原子力発電所の事故も、大変深刻な状況にあります。
このような中にあって、女子サッカーのワールドカップドイツ大会における、日本女子代表チーム・なでしこジャパンの初優勝は、沈みがちだった日本国民に、力と夢と勇気を与える大変うれしい出来事でした。
また、九州新幹線鹿児島ルートの全線開業は、近畿圏及び首都圏との陸路による距離を一挙に短縮し、新たな交流人口の増加につながっています。
ところで姶良市は、今年三年目を迎えることになります。
姶良市のまちづくりの基本理念は、「県央の良さを活かした、県内一くらしやすいまちづくり」です。市民の皆様が誇りを持って、安全で安心して暮らしていただけるよう、地域特性を踏まえた様々な施策を、積極的に展開してまいります。
年が改まり、改めて感じることですが、姶良市となって、まちの「気」の流れに勢いを感じております。合併効果の一つだとも考えていますが、いろいろな行うべき事業の中で、どの事業を重点的に行い、姶良市の個性を際立たせていくか、私の仕事は「選択と集中」だと考えています。
今年は、辰年です。猛虎昇龍のごとき隆盛の年にしたいと考えておりますので、市民の皆様には、より一層のご支援とご協力を賜りますようお願い申し上げますと共に、皆様のご健勝とご多幸を心からお祈り申し上げまして、新春のごあいさつといたします。

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