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黒川岬展望公園

歴史を刻む悠久の風景――。

黒川岬展望公園

 

黒川岬~「錦江湾」の名が生まれた岬~

鉄砲が鳴り響く戦の歴史

 大小の奇岩が並び、前面には藍色の錦江湾が壮大に広がる黒川岬。その先に桜島が噴煙を上げ雄大にたたずむ美しい風景を望むことができます。風情ある景色とは裏腹に、この付近では天文18年(1549)6月に島津氏と肝付氏との間で激しい戦がありました。
 加治木は、島津氏が統治する以前は肝付氏の領地で、本格的な三州統一に乗り出す島津氏は大隅攻略のため肝付氏とこの地で激突。島津家家臣の伊集院氏が陣を構え、肝付氏は川の向かい側に陣取り「黒川崎合戦」が繰り広げられました。
 実はこの合戦こそ、鉄砲が初めて戦闘で登場した場所であったといわれています。その戦の様子を『貴久公御譜』には「而日日飛羽箭、發鐵炮、經數月驚人之耳目」(連日矢が飛び交い、鉄砲を発したので、数か月人々の耳や目を驚かせた)と記されています。

 

 

眺めを詠んだ和歌が由来

 時は経過し、合戦から約2 5 0 年後の享和元年(1801)、島津久徴は「黒川記」の中で錦江の由来が島津家久が詠んだ和歌「浪のおりかくる錦は磯山の梢にさらす花の色かな」にちなんでいると記しました。当初は日木山川河口の入り江が錦江とされていましたが、徐々に拡大して加治木前面の海、そして加治木自体を錦江の里と呼ぶ(詠う)人たちも現れたようです。
 大正時代になると新聞や教科書に鹿児島湾と併記して錦江湾と表記され、昭和30年(1955)には厚生省が鹿児島湾を錦江湾国定公園として指定。今ではごく普通に鹿児島湾域を錦江湾と呼ぶようになっています。
 現在では想像できませんが、日木山川には数百本の桜が咲き誇り「桜川」とも呼ばれ、風情のある景色を見ようと多くの訪問客で賑わったといいます。春には文人墨客などの風雅を好む人々が絶え間なく奇岩を往来していたと伝えられています。

 

 

まち歩きのスポット

 黒川岬の周辺は国の登録文化財となっている森山家住宅、加治木島津家や北海道のビール産業振興に貢献した村橋久成を輩出した村橋家(加治木島津家分家)の墓がある能仁寺墓地、島津義弘公を祀る精矛神社など、島津家や薩摩藩、そして幕末・明治維新につながる散策エリアとなっています。
 地元のまち歩き団体ではすでに観光コースとしており、展望公園の整備で、さらにその利便性が増すと期待されています。

 

 

黒川山と歌人与謝野夫妻

 与謝野鉄幹の父・礼厳は僧侶で明治14年(1881)、加治木町の性應寺(当時・西本願寺説教所)に赴任。鉄幹は9歳から約1年間、この寺で少年期を過ごしています。寺を去る際に近くの山からタブの木を移植。その山が黒川山であったとの説があります。それから40数年後、妻・晶子と二人で同寺を訪問。そのとき詠った夫妻の歌碑が寺の角(国道10号/村田商店前)に建ち、タブの木も残存しています。

 


与謝野夫妻歌碑 

 

加治木八景のひとつ

 加治木八景のひとつでもある黒川岬。八景の名は風光明媚な近江八景になぞらえたものとされています。昭和37年、本市加治木町出身の実業家・園田静夫氏が選定。町民や町議の賛同を得て各場所に石碑を建立しています。すべての碑を巡るのも楽しみ方のひとつです。

 

 

 

 

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